うし車を飛ばしに飛ばして本日早朝レッドの街に到着。
どれ程強行軍だったかは、到着した途端うしが泡を吹いて倒れてしまった――途中の街々でうしと車の交換はしたが――事から判ろうというものだ。今迄乗物酔いに縁の無かった私であるが、これには参った。停止してからも全身が痺れたような感じで、支え無しに立つ事が出来ない。それでも曲がりなりにも道中で食って寝る事が出来たのは、我ながらいい加減なものである。
まあ、私の方はまだマシで、護衛に付いて来た親衛隊の女性など半死半生の状態である。しかし、此所までこれただけでも大した物だろう。何せリーザス城を出た時には十人いたのが、途中で脱落し二人しか残らなかったのだから。最早護衛になっていない気がするが。
そんな御者すらへたり込む状況にあって、唯一人陛下は元気一杯であり、停まると同時に車を飛び降り何処かに駆け出していった。流石にこの時は私も声を掛ける気力すらなく、また行先も見当が付いたので取敢えず放っておき、やがてやって来た黒軍の士官に陛下の護衛の手配と親衛隊員の介抱を頼み、プロヴァンス将軍の元に向った。
……出来れば陛下には将兵に労いの言葉でも掛けて貰いたかったが、そういう事を期待するのは無駄というものだろう。
プロヴァンス将軍に会って数時間後。報告と説明は何時の間にやら将軍の繰言の独演会になっていた。
「……まったく、ハウレーンときたら未だに陛下に対する態度が改まらなくて……」
「それはまあ、止むを得ないでしょう」
「いや、仮にも臣下……しかも一度反乱を起こした身で、あの様な寛大な処分を受けていながら……」
「ははあ……」
既に他の人達は口実を設けてその場から立ち去っており、逃げ出す訳にはいかない私だけが将軍の愚痴に付き合わされていた。まあ、私は昔から老人の話し相手になってしまう事が珍しくないのだが……だからといってこの手の話が聞いていて愉快になる訳ではない――それなりに役に立たない事も無いが。もっとも、相手の方も別段私に相談を持ち掛けている訳ではない。この手の愚痴は適当に聞き流しておくのが吉である、というより下手に突っ込むと碌な事にならないものだが。
陛下がやって来たのは、将軍の愚痴に私の脳がそろそろ麻痺しようかといった頃合の時だった。慌てて立ち上がって敬礼し話し掛けようとした将軍に、不機嫌１２０％といった感じの陛下は、
「五月蝿いぞバレス。俺様は腹が減った。飯はどこだ！」
と言いつつ、ソファーにどっかと座り込み、将軍は慌てて従兵を呼び食事の用意を申し付ける。改めて陛下に向き直り何事か――おそらくカオス入手の首尾についてだろうが――話そうとする将軍の腕に触れ、何事かと振り向く将軍に私は黙って首を振って見せる。陛下の様子を見れば上手くいかなかったのは明白である。ここは取敢えず陛下の腹が脹れて、多少機嫌が直ってからの方が良い。
実際、運ばれて来た食事を胃に収めると見て判る程度は機嫌を直したが、将軍がカオスの事を口にした途端、再び悪化。勢い良く立ち上がると一言、「寝る」とだけ言って部屋を出ていってしまった。まだ昼前なのに。やれやれ。
「どうやら手に入れる事が出来なかったようですね」
「うむ……」
将軍は私の言葉に溜息を吐きつつ応えると、椅子に身を沈める。
たかが剣一本であるが、魔人――万の軍勢をもってしても討取れない、武勇も知略も役に立たないという理不尽極まりない代物――を相手にするにはどうしても必要なものである。下手をすれば、それが無いが為に街一つが壊滅するという事すら有り得る。それを思うと気が重くなるのも当然だろう。
私も溜息を吐きつつ、
「……私も件のシスターに会ってみましょう」
「ふむ……お主、彼女を説得する自信があるかね？」
「全く有りません」
キッパリ応える。何せ私は、現実より神や正義といった観念を優先するような連中と、まともに交渉を成立させ得た経験が無い、というか何度か痛い目をみている。何と言うか彼等は私とは全く別の生き物であり、そういった連中とはお近付きにならない事が最善である、というのがその結果私が得た教訓である。
「しかし、今現在の説得は無理にしても、どのような手段を取り得るか。彼女の為人を見ればその位は探ってこれるでしょう」
出来れば関わり合いになりたくなさそうな相手ではあるが、まあ、やれる事をやらない訳にはいかないだろう。私の仕事では無いような気もするが。
「取敢えず……」
「うむ？」
「……食事にさせてもらいましょうか」
なにせ、ここの所まともに食う事が出来なかったから。
午後になってから街外れの教会に出掛けた。
食事を済ませて直ぐに行かなかったのは、件のシスターと陛下に何があったのか……何となく想像が付いた為、相手が多少落着くのを待った方が良いだろうと考えてである。
目的の教会の扉を叩いて暫し、出てきたシスターの表情を見て私は、
（やっぱり）
と、内心で溜息を吐かざるを得なかった。陛下の行為が、どう考えてもこれからの交渉にプラスに働くとも思えない。その場で回れ右をして帰ってしまいたかったがそういう訳にもいかず、名前と来意を告げ話を聞いてくれるよう頼んだ。彼女は逡巡する様子を見せたものの――あるいは門前払いされるかとも思ったが――とにかく私を中に招き入れてくれた。
「……カオスをお渡しろ、との事でしたらお断りさせて頂きます」
教会内に入り椅子を勧められて座ったものの、さて、どうやって切り出したものか、と思っている内に牽制されてしまった。それも仕方が無いことかもしれないが、私としてもここまで来た以上「はい、そうですか」と言う訳にもいかない。言いたくはあったが。
「何故です？ カオスは本来リーザスの所有物。貴女にそれを自由にする権利は無く、また、レッドがリーザスの一部となった以上、貴女もリーザス国民。こちらの正当な要求には応える義務があると思いますが」
正論……の筈である。が、この種の人間に正論が通用する事は極めて稀である。或いは天界の法は人界の法に優先すると言うべきか。
「勿論ランスさんが心を入れ替えてくだされば、直ぐにでもお渡しいたします。ですが今のランスさんでは……。カオスは魔性の剣。持つ者に正義の心が無ければ魔に飲まれ、闇に堕ちてしまうでしょう」
「しかし、それはあくまでも貴女の主観でしかないでしょう。実際、陛下は先の戦争でカオスを使い、問題は無かった訳ですし」
……まさか陛下の今の性格はその所為……という事はあるまい。
「それは……」
答えつつ、やや俯き唇を引き結んでいる様子を見ると、内心で葛藤が起こっている事は分かる。それでも彼女は、言い澱むものの首を縦には振らない。悩むようならまだマシだと思う。少なくとも交渉の余地はある……と思いたい。
しかし、カオスの使用者が悪人化するなどという話は聞いた事が無いのだが……。魔王ジルを封じての千年間は当然カオスを手にする者はいなかった訳だし、それ以前の極僅かな資料の中にもそのような信頼出来る記述は見られ無い。彼女の判断の根拠は“勘”か“神の御告げ”か、ただ単純に“魔剣”という言葉からの発想だろう。いずれにしてもまともな判断の根拠としては薄いと思うが、自分が正しいと思い込んでいる人間にとっては大した問題ではないのだろう、困った事であるが。無論、事実が彼女の言う通りであり、私の考えが間違っている事も有り得る訳だが。
……などと、私が考えに耽っている間、彼女の方も言葉を発する事は無かった。思えばこの時点で見切りを付けて、さっさと引き上げるべきであったろう。だがこの時の私は取敢えず溜息を吐いた後、説得を続けてしまった。
「ご存知かと思いますが、現在リーザスは魔人の攻撃に晒されています。それに対抗しようとしても魔人を傷付ける術を持たない人間では魔人にとって案山子も同然です。今この瞬間にもどこかの街が襲われ、人々が殺されているかもしれません。それでも貴女はその現実より貴女の考えを優先されますか？」
「……それが神の御意志ならば……。それは神が与えた試練でしょう」
彼女の答えを聞いた時、頭の何処かで何かが軋むような音が聞こえた気がした。
神の意志？ 人が無意味に、虫けらのように殺されるのが神の試練と？
彼女の口調が苦しげなものでなければ、有無を言わさず殴り倒していたかもしれない。その様子を見れば彼女とて納得しきれていない事は見て取れる。だからといって、こちらが心楽しくなるというものでもないが。
「……では、いずれ神が助けてくれるとでも？」
「神は慈悲深い御方です。きっと私達をお救い下さります」
「救い」というのは天国に連れていってくれる事か？
「生憎、地上の災厄は地上の者達が何とかするしかないものです。過去を見る限り、神があまり当てにならない事は明らかのようですが」
それどころか天上の災厄すら地上の者に押付けられているような気もするが。本日何度目かの溜息を吐きつつ思った。
「貴方は神を信じていないのですか？」
「存在しているとは思いますよ。ですが何と言うか……別段、拝んだり敬う義理はない、そんな所でしょうか」
「それは間違っています」
と、姿勢を正し、やや声を大きくするシスター。どうやら彼女が私を悔い改めさせるべき相手と認識した事を悟り、先程の発言を後悔したが遅かった。私が次の行動を起こすより早く、彼女が説教を開始してしまった。
彼女が説教を始めて数十分。初めの内は適当に相槌を打っていた私だが、直ぐにその気力も無くなりただ彼女の言葉を聞き流していた。
誠意に溢れた言葉。しかし何処かで聞いたり読んだ事のある、独創性も面白味も全く無い言葉。この程度では子供ならともかく、それなりに経典を読んだり説法を聞いたりしている私を納得させる事など出来はしないのだが。
大体、神を拝まないといっても、代りに御利益や慈悲や救いといった物も求めてはいない。私のやり方を人に勧めた事も無いし、他人の信仰を邪魔した事も――相手がこちらに手を出さない限り――無いのだから問題は無い筈だ。
ぼんやりとしていた私だが、固い椅子に座りっぱなしで流石に尻が痛くなってきた。帰らせてもらおうと腰を浮かせ掛けた時、今迄鼓膜を振るわせるだけの彼女の言葉が頭に届いた。
「……全ては神の御意志なのです。ですから人の死を嘆いてはいけません。それも神の御心なのですから」
流石にこれは気に障った。一度ならず二度もこういう台詞を……
……アレが神の意志だと言うならば…………神などという物は敵である。
精神力が尽きる事を覚悟で火爆破をかまそうかとも思ったが、取敢えず穏便に済ませる事にした。
「……シスター。貴女の仰る事は良く判りました」
――私と全く相容れない事が――
「御解り頂けましたか！」
ぱっと顔を明るくするシスター。
「では、こちらで懺悔を。大丈夫です。神は全て御赦し下さいます」
……何が悲しくて私が懺悔なぞせねばならないのか……
「……シスター？」
「はい？」
「余計なお世話だ、クソッタレ」
ニッコリ笑ってそう言うと、彼女は口を閉じてくれた。
交渉は見事に失敗。
気は重いがそれでも報告をしない訳にはいかない。
陛下には、
「ふん、役立たずめ」
という、ありがたい言葉を頂いた。
「……何とでも言って下さい」
気力の大半を失っていた私は憮然として答えた。
「しかし、弱りましたな」
どうもあのシスターを説得するのは難しそうだ、という私の意見に、髭を捻りつつ同席していたプロヴァンス将軍が唸る。陛下も足を組み踏ん反り返りながらも非常に不機嫌そうである。手の届く範囲にいたら殴られただろう。
「えーい、何とかならんのか！」
「……考え付く事は幾つか有りますが」
こちらに戻りながら考えていた事を、頭の中で纏めながら言う。
「言え！」
「一つは、もっと説得の上手い者を送る事。ただ、彼女には理屈が通用しませんから、感情に訴え掛ける方が良いかもしれません。人選はアマリリス殿に任せれば良いと思います。
二つめは、彼女の所属しているＡＬ教団に働き掛ける事。寄付の名目でタカリに来るような連中ですから、鼻薬を嗅がせれば動いてくれる可能性はありますし、彼女とて教団の意向は無視出来ないでしょう」
「ふむ」
まあ、この辺は穏便な手段である。
「三つめ。教会に火を点けて彼女を追い出す。その後カオスの封印はこちらの術者を複数使って解く。……ひょっとすると、彼女がカオスを持って出て来てくれるかもしれません。反対に最後までカオスを守って焼死ぬ可能性もありますが」
「……」
気の所為か、陛下が傾いたような。
「……それは些か強引過ぎるのではないか？」
「無論、法的根拠を持って彼女を拘束する事も出来ます。ですが宗教関係者に手を出すのは面倒なところがありますので」
少々呆れた様子の将軍に答える。ただ考えが過激になっているのは自覚している。或いは彼女の説法の所為で神経が些か失調していたのかもしれない。
「続けます。後一つは、彼女がカオスを隠匿している事をマスコミに流します。その際『その為に魔人による被害が拡大している』と話をもっていかせれば、無責任な馬鹿が勝手に彼女にプレッシャーを掛けてくれるでしょう。ただ当然リーザスの敵対勢力が彼女を狙うか、これを利用する事も考えられます。また最悪、追い詰められた彼女が自殺するという事態も考えられますが」
「……却下だ、却下！ セルさんを傷付けるような事は許さん！」
どの口でその台詞を言うのかとも思うが、そういう事が躊躇い無く実行出来るのであるなら端からカオスを強奪してきただろう。妙な所で甘ちゃんなお人である。まあ、そういう事であれば、私としても否も応も無い。別に彼女を死なせたい訳でもないし。
「分かりました。それでは一案・二案の方を進めますが……両方とも多少時間が掛かる事はご承知下さい」
「ぬぬぬぬ」
「よろしいですね？」
「……勝手にしろ！」
重ねて私が問うと陛下はそう吐き捨てて部屋を出ていってしまった。しかし、確かにあまり時間を掛けられる状況でもない。頭の痛い事である。
朝から何処かに出掛けていた陛下が――こちらは散歩する暇も無いというのに――、何処で拾ってきたのか砂漠案内人を連れて戻ってきた。聞けば彼が、シャングリラを攻める為の道案内をするという。
昨日とは一転、上機嫌な陛下に小声で忠告する。
「お止め下さい。これまで砂漠案内人が外の人間をシャングリラに連れて行ったなど聞いた事がありません。はっきり言って怪し過ぎます」
と言うか、怪しんでくれと言わんばかりである。
「がははは、他の奴等はどうだったか知らんが、偉大なる英雄である俺様になら案内くらい当然だろう！」
「……かつてヘルマンがシャングリラを攻略しようとして失敗した事がありますが……それは砂漠案内人に騙された為とも聞いています」
「俺様をそんな奴と一緒にするな！ 万が一俺様を騙そうとしやがったら殺してしまえば済む事だ！」
脅しのつもりなのか、当人の前で遠慮の無い声で陛下は言い放つが、目の前の襤褸を纏った傴僂の小男は欠片も動揺した気配が無い。外見で人を判断すべきではない、と思うがどうにも怪しい。何とか陛下を思い止まらせなければならないのだが。
「シャングリラを攻めるにしても、動かせる部隊がありません。ここ――レッドにいる自由都市攻略部隊は動かせませんし、リーザス城に残った部隊は魔人に備えて待機中です」
「えーい、何とかしろ！」
「何とかしろ、と申されましても……」
陛下がいかに喚こうとも、兵力は湧いて出る物ではない。そもそも私に『何とかしろ』と言うのは筋違いというものである。それでもリーザス軍の状況を把握しておくのは一応私の仕事であるから、頭の中で兵力・その他を計算してみると、
「あ……」
「ん？ 何かあるのか？」
ある事に気付いた私の様子を、陛下は目敏く察して問い掛ける。……まったく、こういう時だけ……。しかし問われたからには答えない訳にはいかない。
「……ハウレーン将軍の部隊が取敢えずの編成を終え、現在演習を兼ねてノース―マウネス方面に出ている筈です」
よりにもよってシャングリラに向かうのに良い位置に……。どうせ哨戒に出るのなら逆方向に行ってれば良かったのに。言ってもどうにもならない事ではあるが。
「よーし、直ぐにハウレーンを向かわせろ！ 汚名挽回のチャンスだぞ！」
「『汚名』は『返上』するものです。……って待って下さい」
ここまで言って、未だ砂漠案内人が居る事にを思い出し、彼を部屋の外に出す。
「ハウレーン将軍の部隊を出すのは些か無理があります」
「何故だ？ 演習が出来るようなら問題が無いだろう」
「編成が終わったのはあくまで“取敢えず”です。確か、補給部隊の編成が未了だった筈です。国内での演習でしたらそれでも何とかなったのですが、国外に出すとなると……」
「そのくらい何とかしろ」
「……何とかしろというなら、出来ない事も無いでしょうが……」
何とかするのは私では無く、アマリリス殿辺りであるが。
「それに、指揮官の性格も……。シャングリラでは罠が仕掛けられている事を考慮すべきです。そんな時、必要ならば退く事を決断出来る指揮官でないと……。残念ながらハウレーン将軍はつい先日、罠と承知で向った挙句まともに引っ掛かった前例がありますから」
今更ながらバンケット将軍が入れば、と思う。或いは今回のような任務はブランブラ将軍あたりが向いているかもしれない。
「がははは！ そんな事なら心配ない。ハウレーンは今では俺様の女だからな！」
どうしたらそれが根拠になるか……まったく。
それはともかくアマリリス殿を通じて、ハウレーン将軍に引き際を間違えないように伝えて貰うべきだろう。
リーザス城に帰還。
往路で脱落した護衛を拾いつつ戻ったのだが、結局彼女等は途中でダウンしてしまった。
陛下の方は相変わらず元気一杯で、車を降りるなり城内へ入っていってしまった。大方ハーレムにでも行ったのだろう。流石にこの道中では女性を抱く事は出来なかったから。
「……何食ったらあんなに元気なんだか、あの方は……」
「まったくですね」
「っと？」
体を解しながら呟いたとき、唐突に後ろから声を掛けられ慌てて振り向くとアマリリス殿がいた。
「何でこんな所にいるんですか？」
少々不敬な台詞を口にしていた事もあり流石に動揺してしまうが、彼女は気にした様子も無く答える。
「ランス王にお話があったのですが……あの様子ですと暫く無理ですね」
言いたい事はあるだろう。それも沢山。
「まあ、宜しいでしょう。ハイアットさん、貴方にも少々お話があるのですが」
「えーと、陛下の行動を私が掣肘出来ない事に関して、何か言われても困るのですが」
何か陛下に関する苦情か愚痴を聞かされるのではないかと身構える。もっとも、苦情はともかく彼女が私に愚痴を零すとも思えないが。
「そこまで貴方に求めていませんよ。今の所、十分期待に応えています」
「そうでしょうか？」
「ええ。実際、今ここに、こうして居るでしょう？」
そう言ってホンの僅かに悪戯っぽい笑みを浮かべる彼女に、私も苦笑するしかなかった。
つまり、叩き出されも逃げ出しもせず、そしてまだ生きている、という事か。まあ、確かに陛下は無茶苦茶な方ではあるが、今の所私がそれに対処出来ない事も無いし、何より別段不快という訳ではない。それに、生き残る事にはそれなりに自信があるし、いざという時の隠し球も幾つか用意はしてある。
「それはともかく、お話というのは実務的な事です。ここでは何ですから私の執務室に来て頂けますか」
「ええ」
しかし、これだけの美女と話をしながら、我ながら色気の無い事である。もっとも、何かあったらあったでそれは困るが。
アマリリス殿の執務室でやはり色気の無い話を済ませ、ついでに書類を受取って部屋に戻る途中、見掛けない女性を連れた陛下と出会った。留守中新しく入った侍女かとも思ったが……何故にセーラー服？
「陛下、サインを頂きたい書類が溜まっているのですが……何ですか、そちらの女性は？」
見たところ、陛下が手を出す女性としては多少好みから外れているような。
「おう、こいつはスパイだそうだ」
「は、はい、スパイの斎藤です。よろしくお願いします」
スパイという女性はあたふたとしながら律義に挨拶する。なんか可愛い。
しかし、エージェントには何人か知り合いがいるが、目の前の自称スパイはどうもそれらしくない。もっとも連中を見た目で判断するのは愚の骨頂だが。
「はあ、こちらこそよろしく。しかし、スパイ……ウチ（リーザス）のですか？」
「んんー、そういや、お前何処のスパイだ？」
「え、あの、その……い、言えません……」
確認していなかったんかい。
「ウチのでないとすると…… 情報局の地下五階に送りますか？」
「ん？ そこに何かあるのか？」
「はい、拷問室が。噂ではアマリリス殿が自ら鞭を振るって取調べを行なっているとか」
「ほほう……それはいい。よし、早速……」
私の言葉にどういう想像をしたのか、陛下がにやけた顔を向けた途端、
「ひっ、ご、拷問嫌ですー」
自称スパイは踵を返して逃げてしまった。途中衝突音と悲鳴が聞こえたりしたが、あの逃げ足の速さは確かにスパイかも。
「……ちっ、つまらん。……しかし本当なのか？」
「はい？」
暫く呆気に取られてスパイが消えた方を眺めていた陛下が、私に問うてきた。
「だから、マリスがＳＭをしている、っていう話だ」
何か微妙に違っているような気がするが。
「冗談ですよ。大体あそこには公式には地下二階、非公式にも地下三階までしかありませんしね。噂としてアマリリス殿が云々と言う話は確かにあるのですが……ま、所謂都市伝説の類でしょう」
その答えに不満気な様子の陛下であったが、直ぐにまた顔を緩める。その時、
「よし、今夜はマリスを………… うひひひひ……」
などという小声が聞こえたのは気の所為だったろうか。しかし、今晩マリス殿が陛下に呼出され、妙な目に遭ったとしたら……私の所為だろうな、やっぱり。
「ま、まあ、それはともかく…… 先程言いましたが、書類が溜まっていますのでそちらをお願いします」
私がそう言った途端、
「おっと、大事な用を思い出したぜ。そいつはお前が片付けておけ。じゃあな！」
こちらも回れ右して逃げてしまった。
その後、何とか捕らえて半分だけは処理してもらったが、お陰で私の仕事の方が片付かなかった。やれやれ。