ALL'S RIGHT WITH THE WORLD
第拾四話 A-Part
被る『予定』では無い災禍がこの街を襲ったのは、夜が更け――しかし人々が寝静まるのはまだ早い、そんな時間だった。
ＥＶＡでも使徒でもない、巨大な移動物体が街を闊歩し、戦闘機が飛び回る。『いつも』ならシェルターに避難する筈の人達も、警報が出ない事に戸惑いながら地上を右往左往するしかなかった。
コンフォート１７にまで響いてきた爆発音に、ベランダに飛び出たアスカは火の手が上がる街の中心部を見遣る。だが、このような事態に至っても、この街を支配する者達は何らリアクションを起こさなかった。
「なんで。なんで非常事態宣言が発令されないのよ！？」
そう吐き捨てるアスカに、同じくベランダに出ていた鳥二羽は何も応えない。アスカも別に、誰かが応えるのを期待していた訳でもない。低空を飛ぶＶＴＯＬが、身体を振るわせる低音を轟かせながら騒ぎの中心に向かうのを、睨むようにして目で追う。
「……シンジは、どこほっつき歩いてるのよ！」
（日重共の時田という人のところ……）
真っ裸のアスカの後姿を眺めながら、レイは『何故分かっている筈の事を、アスカは訊くのだろうか？』と内心で首を傾げた。
そこに鳴る電話のベル。レイは小走りにダイニングに向かった。
「……もしもし」
『綾波？ そっちの様子はどう？』
受話器から聞こえてきたシンジの声に少し表情を柔らかくする。シンジの方も既にある程度こちらの様子は掴めているらしい。スルトと“繋げ”る事が出来るのだから、当然だが。レイはベランダの方に顔を向ける。
「……街で何かが暴れてる。でも非常事態宣言は出されてないわ」
『そう。取敢えず、二人は危険が無いんだね？』
「ええ」
『使徒……じゃないのか……』
「…………」
暫し、微かなノイズのみが聞こえる。
『分かった。僕はもう暫く、こっちで何か情報が手に入らないか試してみる。何かあったら直ぐ戻るけど、二人共気を付けて。まあ、スルトが居るから大丈夫だと思うけど、戸締りだけはしっかりして』
「分かったわ」
『それじゃ』
受話器を戻すと、アスカが直ぐ傍まで来ていた。
「なに、シンジ？ ＮＥＲＶ？」
「碇君。もう少し向うに居るって」
「そ。……まあ、ＮＥＲＶがアタシらに態々情報を伝える筈も無いしねぇ」
腕を組み胸を誇示するかのようなアスカ。
「向こうに教える気が無いなら、こっちで勝手に知るしかないわね。……？」
が、レイの目が自分ではなく、下を見ているのに気が付き戸惑う。
視線を追うと、そこはびしょ濡れになった床。身体も拭かずに風呂から出てくれば当然だが。今も濡れた髪から滴り落ちる水滴が、床の被害を増加させている。
僅かに非難の色を瞳に乗せたレイに、アスカはたじろぐ。
「わ、悪かったわよ。アタシが拭くから、雑巾だけ用意しといて。――ックチュ！」
可愛いクシャミを一つして風呂場に駆け戻るアスカ。
その後姿を見送り、レイは少しだけ息を吐き出してみた。
昨夜の騒ぎが嘘のように、翌朝の第３新東京は普段の姿を取戻していた。
とは言え、爪痕はそこかしこに残り、シンジ達の通学路にも「立入り禁止」のテープが張られた“足跡”があった。
それを横目に、学校に向かう三人。
結局、戻るのが明け方になったシンジは、徹夜の所為で眠気が完全に取れないまま、それでも顔に出す事無く説明する。
「昨夜、動いていたのが戦自なのは間違い無い。でも、ここにちょっかいを出してくるような兆候は無かった。……だから彼等にしても、今回の事はイレギュラーだと思う」
「……で、暴れてた奴の正体は？」
「まだ分からない。でも、どうやらＥＶＡサイズの代物らしいから……そんな物を完全に情報を漏らさずに置けるものでもない」
「……暫くは『待ち』か」
靴箱を開け、入っていたラブレター――一頃よりは少なくなっている――を捨てると、アスカは鼻を鳴らす。
「そうだね。そもそも僕達が関る必要があるかも分からないし」
上履きを取り出しながら応えたシンジに、同じく登校してきたケンスケが声を掛けた。
「ようシンジ。昨日の夜の爆発事件見たか？ 感動もんだったよなぁ！」
挨拶もそこそこにそう言うケンスケに、シンジは苦笑する。
「……おはよう、ケンスケ。あんまり不謹慎な事を言うもんじゃないよ」
「まっじめだよなぁ、シンジは。でもまあ、それもそうだな」
決まり悪げに頭を掻くと、ケンスケは「ギュオーーーーン、ダダダダッ！」などと謎の擬音を口にしつつ教室に向かい、
「ば〜〜か……」
「……ま、ケンスケがあんな事を言ってられる内は、ここもまだまだ平和、って事じゃないかな」
「…………」
後に残った三人は、其々の表情でそれを見送った。
２−Ａの教室は、シンジが転校してきた頃に比べると随分と寂しくなっていた（２−Ａだけに限らないが）。
まず、人が居なくなり、やがて不要になった机と椅子が片付けられる。その度に、残った席は移動されるから、虫食い穴のようになる訳ではない。とは言え、この流れが逆になる事はアスカの転入以来無かった為、教室が徐々に広く――感覚的に――なるのは避けられない。
だが、この日は珍しくその流れに変化が現れた。
担任の老教師に促され壇上に上がった彼女に、教室――特に男子は沸き立った。
「霧島……マナです。よろしくお願いします」
「よろしゅう！」
おどけるように答えたトウジに、笑いが起こる。
「はい、宜しく。それでは、席は……碇君の隣が空いてますね。碇君」
「はい？」
『授業が始まったらさっさと睡眠を貪ろう』などと不埒な事を考えていたシンジは、名前を呼ばれて顔を上げた。
「彼の隣です」
「はい」
シンジが状況を把握しきる前に、転校生――霧島マナは歩き出した。それを見たシンジは、微かに眉を顰める。
マナはそんなシンジの様子に気付く事無く、以前は別の誰かの席だった場所に座ると早速話し掛けてきた。
「いかり君、ね？」
「そうだけど……」
「かわい！」
「…………」
『可愛い』などと言われて、自分が可愛気に欠ける人間である事を自覚しているシンジは、言葉に詰まる。これが年上から言われたならともかく。
「よろしくね？ 碇君」
「……よろしく」
相手がそんな事を考えているのに気付かず、マナはもう一度笑い掛け、シンジは、
（まあ、取敢えずは警戒する事も無いか……）
などと結論を出し、小さく欠伸をして机の上で組んだ手に顎を乗せると、速やかに眠りに入った。
取敢えず脳をリフレッシュさせたシンジだったが、その外側を取り巻く状況は些か不穏なものになっていた。
教室中の様々な視線が、ある一点に集まる。特に、剣呑なモノが二対。
その中心。シンジは首筋の産毛が逆立つような感覚を自覚していたが、もう一人は知ってか知らずか気にした様子は無い。
「担任が優しそうな人で、私安心しちゃった」
「……人を見掛けで判断しない方が良いよ。あれでも昔は『根府川の餓狼』と呼ばれた、名の知られたストリートファイターだったそうだから」
「え！？ ホント？」
「今でも“現役”かな。この学校の悪たれ共も、何故かあの先生の前では大人しいし」
「そ、そうなんだ……」
真面目な顔で口から出任せを抜かすシンジに、そうとは知らないマナは僅かに引く。
そのまま暫くおいてから、話を変えた。
「……あの、良かったら碇君の下の名前、教えてくれない？」
「シンジ、だけど」
「シンジ君ね」
「うん」
そんな事を話している内に、調子を取戻したらしい。マナはやおら姿勢を改めた。
「本日、わたくし霧島マナは、シンジ君の為に午前六時に起きて、この制服を着てまいりました！ どう？ 似合うかしら♪」
「…………」
いきなりそんな事を言われても、シンジも答えようが無い。
（師の薫陶宜しく）人をおちょくったり、スレた大人達と舌戦を繰り広げる時にはしっかりと動く口も、こういう時に気の利いた台詞を吐き出す事が出来ない。加持などがそれを見れば、「まだまだ修行不足だな、シンジ君」とでも評するだろう。
取敢えず、こういう場面に合いそうな言葉を考えてみる。
１．「うん、良く似合っていると思うよ」
２．「う〜〜ん、今一つ」
３．「済まないけど、僕は制服フェチじゃないんだ」
――こういう選択肢が頭の中だけとは言え出てくる辺り、シンジは既にダメダメだとも言えるが。
黙したまま答えないシンジをどう思ったのか、話を変えるマナ。
「ねえ、この学校って屋上出られるの？」
「うん、出られるけど」
「私……シンジ君と一緒に眺めたいな」
『何で？』という疑問は流石に飲み込んだが、シンジはどうにも相手の意図が掴み切れない。――情報不足により行動パターンが読めない、といった所だろうか。が、
「……駄目かな？」
再度の問いに苦笑する。
「……いいよ」
そう言って歩き出そうとしたシンジに、いつの間にか近寄っていたアスカは何かを言い掛ける。だが、視線でそれを抑えられ、留まった。
その時のシンジの顔が見えなかったマナは、アスカの様子に怪訝気な様子を見せたが、「じゃ、行こうか。霧島さん」
「え？ う、うん……」
促されると後ろを気にしつつ、それに従った。
「奇麗ねぇ……」
柵に手をついて景色を眺め遣り、マナは感嘆の声を上げる。
シンジはそこから一歩離れて控え、同じ方を見ていた。ただし、同じモノを見ていたかは判らないが。
街の外れにある第壱中の屋上から見渡せる風景は、奇妙なものと言えた。
未だ自然が多く残る箱根の地に、忽然と現れた人工都市。目的が目的である所為か、そこは数多くの人間が住む場所に特有の猥雑さに乏しい（皆無ではないが）。郊外の開発も、この規模の都市にしては、殆んど進められていない。正体不明の敵と、人の手によって創られた巨人が、この地で度々戦っているのだから無理も無いが。
まるで、二十世紀の人間が思い描いた、二十一世紀の都市の光景そのものだった。
その白亜の搭のようなビル群が、内部に牙を収めた異形の存在であったとしても。
深緑に包まれた山々のあちこちに、野蛮な人造物が隠されているとしても。
シンジが応えない所為か、マナも暫く黙って風景を眺めていたが、やおら身を翻した。
「ね、シンジ君ってＥＶＡのパイロットなんだよね」
「……なんで、知ってるの？」
「お父さんから聞いたの」
どうにも唐突な会話に、シンジは内心だけで警戒レベルを上げる。
「……余りその事は口にしない方が良いよ。一応機密事項だから」
「そ、そうなの？」
「まあ、殆んど『公然の秘密』になってるから、捕まるような事は無いけど。……少なくとも人が居る所では、控えておいた方が良い」
「う、うん……。分かった」
シンジの忠告に、素直に頷いた。そのまま躊躇う気配を見せていたが、また。口を開く。
「……私ね？ 自分が生き残った人間なのに、なんにも出来ないのが悔しい……。羨ましいのよ、シンジ君が」
「…………」
マナの言葉にどう応えるか、頭の中で吟味する。だが、相手の事を知らない以上、一般論になるしかない。マナを見ず、ビルを眺めながら答える。
「人である以上、“出来ない事”があるのは当り前だよ。その事を悔しがるのは良いけど、他人を羨んでも羨まれた人が困るだけ……と思う」
「……シンジ君も、困る？」
「まあ、……それで何かしてあげられる、って言うもんじゃないから」
特に、事情すら分からないとあっては。シンジは肩を竦めて見せた。
そんなシンジの横顔を、何も言わず暫く見詰めていたマナだったが、やがてポケットに手を突っ込む。
「見て？」
「ペンダント？」
マナの掌に乗った、紅いモノが嵌め込まれた装飾品を目にして、シンジは問う。
「あたしがシンジ君に付けてあげるの。くすぐったいけど我慢してね？」
言ってシンジに近寄ろうとしたマナだったが、眼前にスウッと翳された手に動きを止めた。
「済まないけど、そんな高そうな物を貰う謂れは無いよ」
「あん、気にする事無いのに。……それに良い事を聞かせてくれたお礼」
「それでも――だよ。気持ちだけ貰っておく」
苦笑するシンジに、尚も諦められないのか中途半端に手を上げていたマナだったが、
「シンジっ！」
第三者の声に停止した。
マナと、その声の主が随分前から来ていた事を悟っていたシンジも、そちらに顔を向ける。そこにはアスカだけでなく、レイも佇んでいた。
「いつまでやってんのよ！ 本部に行くわよっ！」
肩を怒らせズカズカと近付いたアスカは、シンジの腕を掴むと力任せに引く。更に、向きを変えたシンジのもう片方の手は、アスカの後を付いてきたレイによって捕らえられた。
アスカとレイはともかく、今日はシンジの訓練は無い日である。それは二人共、分かっている。だが、シンジをこのまま学校に置いておきたくなかったのだ。
それを何と無く理解しているシンジは、嫌がる素振も見せず二人に腕を預けたまま、マナを振り返った。
「じゃあ、霧島さん。悪いんだけど……」
「あ……うん」
「ほら、さっさと来る！」
「……行きましょう」
アスカとレイに連行されたシンジがドアの向うに消え、屋上にはマナだけが残された。
朝夕ともなれば人で溢れ返る第３新東京環状線の車内も、平日の日中ともなれば空席ばかりが目立つ。
その内の一両に並んで座りながら、しかし三人に会話は無かった。
だが、その沈黙に耐えられなくなったのか、腕を組んで考え込むシンジの様子を、チラチラと窺っていたアスカとレイだったが、まずはアスカが声を上げる。
「……なんなのよ、あの霧島ってヤツ？ 来た早々、男にちょっかい出してさ！」
「なんだ、アスカ気付いてなかったの？」
シンジが閉じていた目を開けそう言うと、アスカは少したじろぐ。
「な、なによ……」
「他のクラスならいざ知らず……ウチのクラスに来る“転校生”がまともな訳無いだろ」
「……『コード７０７』」
横で聞いていたレイがシンジの言いたい事を察しそれを口にすると、アスカもハッとした。
「そういう事。そして彼女の事は、少なくともＮＥＲＶ本部の仕掛けじゃない」
「……ＳＥＥＬＥ？」
流石に声が低くなるアスカ。顔付きも厳しくなる。
「それは分からない。それともう一つ。彼女の“歩き方”……あれは“兵士”のソレだ」
シンジは、そこで言葉を止め横を向く。アスカとレイがそれに釣られて目を向けると、壱中の制服を着た女の子が隣の車両からこちらに向かって歩いてくるところだった。
その娘――マナは見付かった事に気付くと足を止めたが、躊躇を振り切るようにして、再び近付いてきた。
「アンタ……」
「来ちゃった」
睨むアスカを気にした風も無く、マナはシンジに笑い掛ける。
「学校はどうしたの？」
「だって退屈なんだもん。私もネルフへ連れてって？」
「……セカンドインパクトからこっち、まだまだ満足に学校に行けない子供が多いんだけど……ね」
かつてミサトに学校に行くよう言われた時、拒否しかけた事を棚に上げ、シンジは良識的な事を言う。
言われたマナは決まり悪気にするが、列車は止まる事も途中下車する事も出来ない。
「とにかく、座ったら？」
シンジは溜息を吐きつつも、そう言うしかなかった。
ジオフロントへのゲートの前で立ち止まったシンジは、ＩＤカードを取り出しつつ振り返る。
「ここから先はＩＤカードが無いと入れないよ」
「こうすれば、どう？」
シンジの背中に抱き付こうとしたマナだったが、その腕は空気を掻き抱き身体が前方に泳ぐ。
「……何やってんのよ、アンタ？」
「えっ？ あ、あれれ……？」
腰に手を当て呆れたように見遣るアスカ。それを笑って誤魔化したマナは、寸前で抱き付きを躱したシンジに咎めるような視線を向けた。
だがシンジは、それに対して心を動かした様子は無い。
「悪戯が過ぎるよ、霧島さん。そういう事をして、ＮＥＲＶは『子供の冗談』で済ます程、甘い所じゃない」
「そ、そうなの？」
「うん。さもなきゃ、子供に“殺し合い”なんか、端からさせるもんか」
「え、ころしあい……？」
驚いたマナは、目をシンジからアスカとレイに移すが、二人共否定する色は無い。
「もっとも、僕は自分の意志で“殺し”てるんだけどね……。ともかくそういう訳だから、霧島さんも下手に目を付けられる前に帰った方が良いよ。……ここには監視カメラもあるし」
偽装されたカメラの方を指し示す。マナが思わずそちらに目を向ける間に、シンジはスリットにカードを通す。
駆動音にマナが目を戻すと、シンジは既にゲートをくぐっていた。アスカとレイもそれに続く。
「じゃあ、霧島さん。また学校で」
シンジのその声を最後に、扉が閉まる。
暫くその場に佇んでいたマナだったが、やがて足早にそこを離れた。
夕食時のシンジ宅では、幾つもの料理が其々の匂いを立ち上らせ、人間（及び鳥）の食欲を刺激していた。
ダイニングでテーブルを囲み食事を始めてすぐ、アスカがその目的以外で口を開いた。
「ねえ……どうするのよ？」
「どうする、って？」
「霧島マナの事よ」
アスカがその名を口にすると、レイも手を止めシンジを見る。
「と、言われてもね……」
二人に見詰められたシンジは、箸を口に運びながら首を傾げる。
彼女がどこかの工作員の類である事は、どうやら間違いが無い。
これまでシンジはそういった連中を相手にした場合、襲撃して身包み剥いだ上で放り出す、という事をしてきた。だが、今回はいつもの「殴って下さい」と看板を出してる（シンジ主観）連中と、様子が異なる。相手が「女の子」である事もあるが、こうもあからさまに正面から接触された事は無かった。
それとて、マナがこちらに害を与える目的を持っているのなら、シンジとて容赦などするつもりは無いが、
「彼女が陽動……もしくはこちらにリアクションを起こさせる為の囮、という可能性もあるし」
「そうなの？」
「うーん、初日から早速接触してきたのはともかくとして、いきなりＥＶＡの事を口にするのは、拙速が過ぎると思うんだけど……」
アスカの問いに、シンジも首を捻らざるを得ない。
これまでどのような組織であろうと、シンジは傍に寄せ付けた事は無い。それを考えればシンジへの接触はもっと慎重で然るべきだ、と思うのだが。果たして、マナ本人が間抜けなのか、その背後にいる存在が何かを考えているのか。
シンジが自身の“実力”を隠すようにしている為、シンジ本人を侮って『組し易し』と考えている可能性もある。
それに、マナがシンジ以上の能力の持ち主であるという可能性も、無い訳ではない。確かにシンジはある意味非常識な存在だが、ならばそれはシンジと同等以上に非常識――シンジの目を誤魔化し得る程――な者が存在し得る証明かも知れない（以前、アスカ達にそれを話した時は妙な顔をされたが）。
「ま……暫くは様子見、かな。相手の所属と目的を見極めて、それからでも遅くは無いと思う。あっちが強硬手段に出てくれば、話は別だけど」
アスカにもレイにも、今一つ納得し難い判断であったが、かと言ってこちらから強硬手段に出ろ、とも言えない。ざらつく思いを感じつつ、アスカは別の事を尋ねた。
「……それは良いけど、あっちはどうするのよ」
「あっち？」
「謎の移動物体の事よ」
「ああ」
シンジは頷く。
あの騒ぎがあった翌日の霧島マナの転入である。果たしてこれを偶然と見て良いものか。
「となると、余り悠長な真似もしていられないか。なら……」
「……どうするの？」
「人に頼むさ。追求すべき真実とやらが手に入って、取敢えず手持ち無沙汰な人がいる事だし」
こちらを見詰めながら訊いてきたアスカに、シンジは肩を竦めながら答える。
個人名を挙げるまでも無くシンジが言う人間の顔が頭に浮かび、アスカは露骨に顔を歪めた。
「……何してんのよ、あの人？」
「さあ、別に監視している訳じゃないし。大方、女の人でも引っ掛けてるんじゃないの」
その答えに「フンッ」と鼻を鳴らすアスカ。それまで黙っていたレイが口を開く。
「この間、鍬を担いで歩いていたわ」
「くわ？」
「……って、畑を耕すのに使う奴？」
「ええ」
顔を見合わせる、シンジとアスカ。
「何してんのよ、ホントに……」
「そう言えば、いつの間にかジオフロントに畑が出来ていたけど……。家庭菜園くらいの奴が」
動きの止まった人間達に、スルトが一声鳴いて料理が冷める事を警告する。
「ま、まあ、どんな趣味を持っていようと、加持さんが“能力に関して”は問題が無いのは確かだし。……後の話は食べ終わってからにしようか」
シンジの言葉に、頷くアスカとレイ。二人が食事を再開したのを見て、シンジもまた箸を進めるが、
（次の使徒が来まで時間があるから、他に進めたい事もあったんだけど……何事も予定通りには行かないもんだな。ファウストもアダムのフェイクを造るのに暫くは手を離せないし。面倒な事にならなければ良いけど）
内心だけで密かに零した。
『面倒は御免』とのシンジの思いが何者かに通じたのか、暫くは特に何も無く日が過ぎていった。と言うものの、平穏無事とは言い難い。
霧島マナは相も変わらずシンジに付き纏い、ケンスケに「何でシンジばっかりぃーーっ！」と絶叫を上げさせていた。もっとも、ケンスケにしてみれば、化けの皮が剥がれ売上を落としてきているアスカの写真に代わる、新たな売れ筋を入手出来たのだからその点は感謝しているようだが。
肝心のシンジは適当に合わせているが、アスカとレイはそれがどうにも気に食わない。アスカなどは「何企んでんのよアンタ！？」と、口まで出かかるのを何とか抑えていた。――その程度の分別と忍耐は身に付けた、という事だろう。
「あれ？」
加持が運転する車の助手席で、ミサトはふと目に入ったモノに、首を傾げた。
「どうした？」
「ん、シンジ君を見掛けただけよ」
反対車線を挟んで向こう側の歩道だった為、良く見えた訳ではないが、学生服を着たその姿は確かにシンジだった。大きな買物袋を下げていたようだったから、恐らく学校帰りにスーパーにでも寄ってきたのだろう。
ただ、その脇に壱中の制服を着た女の子が寄り添っていたようだが……そちらは良く判らなかったが、恐らくアスカかレイだろう。
その時は、そう思って大して気にも留めなかった。
「あら？」
コンビニの前に駐車した車の脇でぼんやりしていたミサトは、近付いてきた二人に気が付いて声を掛けた。
「やっほー、アスカ、レイ。今帰り？」
「何よミサト。まだ勤務時間の筈でしょ。またサボり？」
「な……んなワケ無いっしょ！ 買出しよ、買出しっ！」
「……大きい声、出さないでよ」
思わず声を荒げたミサトに抗議する。言われたくないのなら、常日頃からきちんとした勤務態度を取っていれば良い。遅刻の常習犯を、アスカは冷めた眼で見詰めた。
無言の指摘に、有り余る心当たりが在ったミサトは話を変える必要性を感じた。
「そ、そう言えば……シンジ君は一緒じゃないの？」
言って辺りを見回す。いつもはシンジを避ける傾向にあるミサトがこういう事をすると、いかにもわざとらしい。
「シンジは夕飯の買物よ」
「あ、そ……って、あれ……？」
こめかみに手をやり、先程見た光景を思い出す。
「さっき、シンジ君を見たけど、一緒にいたのはアンタ達じゃない……のよね？」
ミサトの言葉に、アスカとレイは顔を見合わせる。シンジと一緒にいる、というのが誰であるかは直ぐに見当が付いた。自然、顔付きが険しくなる。
そんな二人の様子に、ミサトの脳裏にピンと来るものがあった。
「はは〜〜ん……。シンジ君も浮気者よねぇ〜」
「何言ってんのよ？」
「だーって、そうでしょ？ アンタ達を放っておいて、他の女の子とデートなんかしてるんだから」
いやらしく笑うミサトを、半ば呆れを含んで睨むアスカ。レイは『何を言ってるのかしら、この人……』というような目を向けた。
二人の視線に気付いていないのか、ミサトは続ける。
「こーれだから男ってのはねぇ……。二人共！ 何かあったら、このミサトお姉さんに相談するのよ！」
「ミサトには関係無いでしょ」
「もう！ アタシはアナタ達の味方よ。信用しなさいって！」
「…………」
（また、こいつは……）
アスカは唾を吐き出したくなる衝動を覚えた。
以前「ミサトの復讐に付き合うつもりは無い」と宣言したが、それ以後もミサトは時折こんな事を言いながら摺り寄ってくる。ミサトが復讐を諦めない限り――そして、その為の手駒と出来るのが自分達だけである以上、仕方が無いのかもしれないが。
どうにも歯が立たないシンジに比べて、昔からの知り合いであるアスカや、命令を無条件に受け入れるという印象があるレイの方が、まだ扱い易いと思っているのだろう（ついでにシンジを牽制出来れば言う事は無い）。馴れ々々しく、また、こちらを子供扱いしているのが丸判りの態度が癇に障る。
アスカは、この際だからはっきり言ってやろう、と口を開いた。
「口先だけの味方なんて要らないわ」
「な、何よ、『口先だけ』って……！」
冷たく言われて、ミサトは気色ばむ。
「アタシは、本気でアンタ達の事を――」
「――じゃあ訊くけど」
言い掛けたミサトを遮り、アスカは尋ねた。
「例えば……髭司令が無茶な事を言い出して、アタシがそれに反発したら……。アンタ、どっちに付く？」
「そ、それは……」
目の前に示された『仮定の事態』に、ミサトは絶句する。仮定とは言うものの、これまでの事を考えると、それは強ち有り得ない話ではない。いや、十分考えられる事である。
そうなった時、自分はどうするか。『命令違反』となる事を恐れず、アスカ達を庇う事が出来るか？ ミサトは自問自答するが、
「こっちに付く事なんか、出来ないんでしょ？」
アスカの断定のような質問に答えられない。その通りだからだ。
唇を噛み俯いたミサトに、更に追い討ちが掛けられる。
「そういうのを普通、『口先だけ』って言うんじゃない？」
「…………」
どの道、ミサトが味方となったところで、大して役に立つ訳ではない。アスカは更に酷い事を考えたが、流石にそれは口には出さなかった。ただ、息だけを吐き出す。
これが平和な時の事なら、『口先だけの味方』でも良いのかもしれない。だが、今は命懸けの戦いの真最中である。そんな時に、
「そんな奴の言う事を信じて頼ったりしたら、肝心な時に裏切られて、ダメージ・ドンッ！ 更に倍――ってなとこね」
言って『実例』を脳裏に浮かべてしまい、気分を悪くするアスカ。雰囲気が濁り重くなる。
その時、黙り込んだミサトにとっての時の氏神が、荷物を抱えて現れた。
「お待ちどう」
「お、遅いわよっ！」
「だったら、葛城も手伝ってくれれば良かっただろ。……よっ、アスカ」
ミサトをあしらいつつ軽く声を掛けた加持だったが、アスカは露骨に不快感を顔に出す。
それに気付いたミサトは、アスカと苦笑する加持を交互に見比べた。
「な、何よアンタ達……」
「……行くわよ、レイ」
掛けられた声を無視し、レイを促すとその場を足早に離れる。
その二人の背中を呆然と見送ると、ミサトは困ったように頭を掻く男に顔を向けた。
「ちょっと加持！ アンタ、あの娘に何やったのよ！？」
「いや、ちょっと――な……」
訊かれても、何があったかなど、とても言えたものではない。加持は誤魔化すように、そう言うしかなかった。
だが、それではミサトも収まる筈も無い。半ば八つ当たりで加持を怒鳴り付ける。
「もうっ！ 人が何とか信用して貰おうとしてんのに！ 台無しじゃない！」
「それは……無理だと思うぞ……」
「何でよっ！」
「呪いが解けてしまってるからな」
「はん？」
理解出来ない言葉に顔を顰めるミサト。それを眺め、加持は内心で独言ちた。
（呪いが解けたお姫様達は、自分達に呪いを掛けた悪い魔法使いを、二度と信用しないだろうな……）
「ま、俺の不徳と致すところさ。……さ、早いところ戻ろうぜ」
体外に出た言葉はあくまで軽く、荷物を後部座席に放り込むと自分も車に乗り込む。ミサトも追求を一時引っ込め、助手席側に回る。
「こんなに買い込んで、どうするのよっ？」
「発令所のみんなが食うだろ」
「コンピューターにポテトチップスが入ったら、どうするの！？」
「コンピューターだって腹は空くさ」
文句を付けるミサトをあしらいながら、加持は別の事を考える。
アスカ達の呪いは解けたものの、呪いが掛かっているのはミサトも同じだった。それを解くのをシンジに託された――ミサトがシンジに見切りを付けられた、とも言うが――のだが、さてどうしたものか。
まだ騒いでいるミサトの声を片耳で聞きながら、加持はキーを捻った。
片親というのが珍しくも無い２−Ａにあって、包丁も握った事が無い、というのは少数派だろう。とは言え、家庭科の調理実習で割烹着を纏った群れを端から見れば、どうにも危なっかしい手付きの者や不手際が目立つ者の少なくない。
限られた時間と空間、同時進行で進められる複数の作業。その手順を頭の中で組み立て、効率良く行なうには、相応の習熟が必要である。料理というのは、これで中々奥が深いものなのだ。
「へぇ、綾波さん上手ね」
隣でホウレンソウを炒めるレイに声を掛けるヒカリ。
「……碇君に教わったから」
「そう……」
手元に意識を集中しながらも答えを返したレイに、頷き返す。
料理をする事を覚えてまだそれ程経っていない為、所々ぎこちなさはあるものの、基本はしっかりしているし、ヒカリの目から見ても十分に合格点である。クラス全体を見回しても平均以上だろう。
そのレイの料理の師とでも言うべき人物は、更に鮮やかな手付きでフライパンを操っていた。
ヒカリの見立てでは、その腕は自分とほぼ互角。特に包丁捌きに関しては『痛みを感じさせず頸を落とす事が出来る』と嘯くだけあって（ヒカリは知らないが）、達人の域に達しているシンジである。
（やるわね、碇君っ！）
などと密かに拳を握り締めるヒカリであった。
そのシンジであるが、（このところ珍しくも無いが）マナが引っ付いている。と言ってもシンジの方はいつもと変わりが無い為、別にイチャついているといった感じは無いのだが、
「よぉセンセぇ、霧島とえろぉ仲ええやんかぁ。そういうんはもっとやれぇ。惣流が妬きモチ焼いてええ気味や」
青春真っ只中の中学生が、そういう事を見逃す筈も無い。ついでに言えば、その結果もたらされる事態に想像を巡らす思慮にも欠ける。
果たして、それを言い放ったトウジは、当然とも言える報いを受けた。
「痛いな、こんぼけぇ！」
捩鉢巻きをした頭に大きなタンコブを作ったトウジが、加害者に向き直る。
加害者たるアスカは、凶器である（さっきまで火に掛かっていた）フライパンを構えて仁王立ちしていた。
「ボケはアンタよ！ この関西ザルぅ！」
「なんやとぉ！ シンジ取られて悔しいんやろがぁ！」
「……まあまあ」
舌戦を開始しようとしたアスカとトウジを宥めるべく、シンジが割って入る。だが、二人の矛先はそちらに向いた。
「シンジ！ アンタも、女とでれでれするの禁止ぃ！」
「そや！ ＡもＢもＣも禁止じゃ！」
「なんだよ、それ……」
二人に指を突き付けられ、シンジは動きを止める。アスカは続いて指をツイと動かし、マナに向けた。
「アンタもよ！ 大体アンタ――」
「スパイでしょうがっ！」と言い掛けるのを、何とか喉の辺りで押し留める。
妙なオーラを漂わせたまま黙り込んだアスカに視線が集まり、部屋中が沈黙に満たされた。
アスカに睨まれて黙っていたマナは、やがて身を翻した。
「あたし、帰る！」
「あ……」
そのマナに一瞬手を伸ばし掛けたシンジだったが、結局引込め頬を掻く。
先程までとは別種の沈黙が降りた教室に、ヒカリの声が響いた。
「ちょっと、碇君！ 追い掛けて！」
「え、僕が？」
「そう！」
「な、何故？」
「良いから、早く！」
戸惑っていたシンジだが、ヒカリの声に逆らい難いものを感じ、割烹着を脱ぎ捨てると部屋を飛び出した。
それを見送り一息吐いたヒカリだったが、視線を感じて振り返った。見ると、アスカとレイが、ジト〜とした目を向けている。
思わず後退る。
（あうあうあう……）
ヒカリは何か考えがあって、ああ言った訳ではない。そうしなければ、と感じただけである。だが、取敢えず、
「……ゴメンナサイ」
素直に謝った。
シンジにとっては、マナを追跡するなど容易い事である。些かも迷いもせず、程無く追い付いた。
テニスコート裏で金網を掴んでいるマナの背中に歩み寄り、声を掛ける。
「霧島さん」
「ひゃっ！？」
文字通り飛び上がり、振り返るマナ。
「シ、シンジ君！？」
「あ、ごめん。驚かせた？」
「う、うん……ちょっと。足音全然しなかったから」
答えつつ、ふとマナはシンジの足音というモノを聞いた事が無い、と思い当たる。こういう時、必ず攻撃にも防御にも対応出来る距離をおく事にも。
今もそうだった。構えたような感じは無いのだが、自然に一歩離れている。
マナは背中を金網に預けたまま、今迄とは少し違った目でシンジを見てみた。だが、良く判らない。強いのか、弱いのか、も。
授業中という事も有り、この場に人の声は届いてこない。二人して黙っていると、葉摩れの音だけが耳に入ってくる。
やがて、マナがポツリと漏らす。
「私、シンジ君といると迷惑かもしれない……」
「別に……そんな事も無いけど」
「でも、惣流さんだって……」
「アスカの事は気にしないで――って、無理か」
苦笑して頭を掻く。
それを見ながら、マナは別の事を訊いてみる。これまでＥＶＡの事を尋ねてもはぐらかされていた為、答えが返ってくるのは余り期待していなかったが。
「ね、シンジ君って、惣流さん――と綾波さんと一緒に住んでるんでしょ？」
「……まあね」
「それってやっぱり、ＮＥＲＶの命令なの？ パイロット同士は、仲良くしないといけない、とか」
「いや、勝手にそうしてるだけ」
そう言って、今度は愉し気に笑う。
「僕は、自由気侭にやらせてもらってるからねぇ」
「自由……か」
その言葉を噛締めるように口にし、マナは俯いて自分の靴を見た。
「自由っていいね」
「……どうだろうね」
低くなったシンジの声に、顔を上げる。
「世界はそれほど優しくない。それに、『自由』というのは『思い通りになる』事とイコールじゃない」
シンジの厳しい顔に、思わず釘付けになるマナ。だが、やがてシンジが相好を崩すと、硬くなった雰囲気が霧散する。
「差し当たって中学生である僕達は、勝手に早退するのは良くないんじゃないかな？」
「う、うん……」
促したシンジに、マナは素直に頷いた。
Top/Next