ALL'S RIGHT WITH THE WORLD
拾参第話 C-Part
Ｒ警報発令が発令されＤ級勤務者が退避した為、食堂は閑散としていた。そこには現在、三つしか人影は無い。
結局、新たに何枚かのフレンチトーストをアスカとレイに提供したシンジは、二人に向けていた視線を不意に上方に逸らした。
「……なに？」
焦点が合っていないようなシンジに気付き、手と口を止め問い掛けるレイ。
「……どうやら、方針が決まったらしい。進化を促進させて自滅させる、ってさ。……しかし『進化の終着地点は自滅。死そのもの』だ、って司令は言ってるけど――」
口を歪めてこの場にいない者を嗤う。
「――なら、人間を人工進化させる“補完計画”。その果てにどこへ行こうと言うのかな、あの男は」
「……逢いたい人間に逢えさえすれば、後はどうでも良い、って思ってるんじゃないの」
「迷惑な話だ」
馬鹿にしたように言うアスカに、シンジは肩を竦めて見せた。
その動きが止まり、顔が出入り口の方に向く。
「やあ、何だか美味そうな匂いがしていると思ったら……」
三人に近付きながら、男は剽げた口調で語り掛けてきた。
「加持さんも食べますか？」
「いや……。お茶だけ貰おうかな」
シンジはそれに何でも無いように応えたが、アスカとレイはそうはいかなかった。
直ぐにそれを察したシンジは、さり気無く席を立つ。
「少し、場所を替えましょうか」
「……そうだな」
流石にアスカに睨まれていては、加持も居心地が悪い。シンジの提案に賛意を示して、アスカ達から離れたテーブルに行き、そこに腰を下ろした。
シンジが新しい茶を淹れるのを待つ間、煙草を取り出し火を点ける。
「……禁煙席なんですけどね、ここ」
いつの間にか近寄ったシンジが、加持の前にカップと灰皿を置きながら言う。
「まあ、人がいないから良いですが」
付け加えて加持の対面に座る。
加持は苦笑いしつつ礼を言い、二口三口煙草を吸ってそれを灰皿に押付けた。カップを取り上げ、紫煙の代わりに茶の香気を鼻腔に含む。
「君達はこんな所にいて良いのかい？」
「必要なら、向うから呼び出しがあるでしょう。……こっちの事を忘れている、という可能性もありますが」
シンジは加持が「そうか」と頷くのを見て、少し声を低めて問い掛けた。
「ところで加持さん……。綾波に何かやりましたか？」
「ん……？」
言われてそちらを横目で見る。アスカの方は殊更加持を無視しているようだが、レイは表情を面に出す事無くこちらを見ていた。
「……怒ってますよ、あれ」
レイが自分を見ている意味が解らず内心で首を捻る加持に、シンジが囁く。
「……そうなのかい？」
「ええ」
頷いたシンジだが、感情を察する事が出来ても心が読める訳ではない。
「心当たりは、無いんですか？」
「……いや……ちょっと思い当たらないな」
「ふむ」
問われても、加持はレイとの接点は前回シンジと会った時くらいしか無い。そしてあの時は、レイに掴まれたまま何故か硬直していただけだった。
シンジもその辺の事は分かっている。しかし、レイが加持に対して不快感を持っている事は確かである。その原因に考えを巡らしてみる。
他にレイが不快に思う事と言えば――
「――ひょっとして、碇司令の同類、と見ているのかな？」
「……どういう事かな」
「親切ごかしで近付いて、その実女の子を利用しようとしか考えていない、碌で無し」
決め付けるように言われ、加持は見えない槍に貫かれたように仰け反る。それが、「碇司令の同類」と言われた所為かどうかは不明だが。
「は、はは……。き、きついな、シンジ君」
何とか精神を再構築して上体を立直す加持。だが、引き攣りまくり脂汗に塗れた顔は、未だダメージが抜けきれていない事を表していた。
「……女の子に嫌われるのは、不本意なんだがなぁ」
「自業自得だと思いますが」
それでもいつものペースとスタイルを取戻そうとするが、シンジの一言に今度は棍棒で後頭部を殴られたかの如く突っ伏す。
気の所為か煙を上げているようにも見える加持の頭を眺め遣り、シンジは茶で喉を湿らせた。
「……とは言え、アスカも自分の願望を加持さんに投影していただけですしね。加持さんが、それに応える責任も義務もある訳ではないですし。どういう選択をしようと――前にも言ったように加持さんの自由ですから」
ただアスカを弁護してやるなら、現実より自分の願望を優先してしまう傾向があるのは、誰もが多少なりとも否めない事である。ましてや、アスカはまだまだ子供でしかない。そして――
「もっとも、貴方が真実とやらを得る為に、アスカを利用した――となると話は違ってきますが？」
冷たくなったシンジの言葉が加持の耳を刺す。
「そんなつもりは無い」と胸を張って断言出来ないのは、自分でも理解している。いや、たとえその気が無かったとしても、「アスカを利用する」という形になっていた事は間違い無い。
黙り込んだ加持を見て、シンジはカップを置き、代わりに箸立てから割箸を一本抜いて弄ぶ。
「ま、済んだ事ですし、アスカが精神崩壊する羽目にはならなかった訳ですから、まずは良しとしましょう。しかし――」
シンジの手が霞んだように、加持には見えた。
そして、胸元で立った軽い音に下を向く。
合成樹脂でコーティングされた厚い合板に、斜めに突き刺さった割箸を認め絶句する。テーブルの下からそれに触れて現実である事を確認し、目を見開いてシンジの方を見遣る。
「今後はアスカを、そして綾波を利用しようとするのは許しません。利用するなら、僕にして下さい」
気圧されて息を飲む加持だが、シンジが殺気を込める事はしなかった為、汗を垂らしながらも何とか口を開く。
「シンジ君を利用するのは構わないのか……？」
軽口を叩くものの、内心で『下手をしたら、山の中で犬の餌になってたかな……』などと考えていた所為か、本人も気が付かない程語尾が震える。
「結構ですよ。その挙句に騙そうが、裏切ろうが……ね」
シンジは発する気を納め、醒めた声でサラリと答えた。
「裏切られて泣き喚くような、可愛気のある性格でもありませんから」
「…………」
『そういう問題じゃないだろう』と思う。同時に本当に裏切りでもしたらどうなるか、想像を巡らす。地の果てまで追詰めて報復するか、それとも放っておくか。先程のプレッシャーを綺麗に消したシンジからは、判断を付け難い。
「……で、あれから色々調べていたようですが、今日の御用件は？」
加持が今日まで本部内の事だけでなく、マルドゥック機関やその他の事を確認していたのをシンジは知っている。渡したデータは何一つ改竄してはいないのだが（あれが全てのデータと言う訳でもないが）、加持の慎重過ぎるとも言える姿勢に苦笑する。もっとも、あれを渡されたからといって、頭から信じ込むようでは役には立たない。
一方、問われた加持は顔付きを改めた。
シンジから渡されたモノで、求めていた真実は殆んど明らかになってしまっている。少なくとも、最早ＳＥＥＬＥやゲンドウ、そして内務省に組みしている意味は無い。である以上、加持の最大の興味は、目の前の少年に移ってしまっている。
「まず訊きたい。シンジ君……君は何をしようというんだい？」
真剣になった加持の目を、シンジは正面から見返して言った。
「……サードインパクトの阻止」
ＣＡＳＰＥＲの置かれたフロア。その筐体の脇に膝をつき、リツコが床のパネルを開けスイッチを押す。ケースが迫り上がって露わになったのは、パイプとコード類が複雑に絡み合ったオブジェだった。
一画にある蓋を開けると、人一人が這って進める程度の通路が外気に晒される。そこの壁もやはりパイプとコードで構成されていたが、そこかしこにメモがベタベタと張られていた。
「なんですか、これ？」
「開発者の悪戯書きだわ」
その正体に直ぐ気付いたリツコが呟く。
「すっごい……裏コードだ。ＭＡＧＩの裏コードですよ、これ！」
「さながらＭＡＧＩの裏技大特集ね？」
「うわぁ、こんなの見ちゃって良いのかしら。これなんてｉｎｔのＣよ！ これなら意外と早くプログラム出来ますね、先輩！ 」
手近の一枚を手に取ったマヤが子供のようにはしゃぐ。メモに書かれている事の意味が半分も分からないミサトも、これが役に立ちそうだと見当を付け顔を綻ばせる。
リツコは悪戯書きの一つに目を留める。
見覚えのある字で『碇のバカヤロー』と大書きされたそれは、何を思って書かれたのだろう。
「ありがとう、母さん。これで確実に間に合うわ」
微笑を浮かべたリツコは、もういないその字の主に小さく礼を言った。
『サードインパクトの阻止』
それがＮＥＲＶの掲げているものだけでない事は、確認するまでも無かった。
「で、正義の味方としては、それを見過ごす事は出来ない……って訳かな？」
「まさか」
目だけ真面目なまま表情を緩めた加持の質問に、シンジは失笑交じりに答える。
「ぶっちゃけた話、エゴですよ。気に食わないから叩き潰す。それだけです。もっとも――」
笑みを深くする。
「――連中の計画を許容したら、こっちも無事では済まないですしね。……一つになりたい者だけが一つになって、尚且つそれを望まない者に迷惑を掛けないなら、放っておいたんですけど」
彼等がこの世に絶望してこの世からの逃避を選ぶ、と言うならそれは彼等の自由である。だが、何故それに自分達を巻き込む？ 何故それを望まぬ自分達が、我身を犠牲にして彼等の望みを叶えねばならない？ 彼等の唱える“救済”など大きなお世話、単なる傍迷惑でしかない。
もっとも解ってはいるのだろう、彼等も。自分達のやろうとしている事が「天国に連れて行ってやるから、死んでくれ」と言うのとさして変わらない事に。全人類の同意が得られるような事なら、そもそも秘密裏に行う必要など在りはしない。
加持を見る。『貴方はそれを望むのか？』と。
「この世からおさらばしたくなる程、絶望しちゃいない。それに俺はまだ三十なんだ。まだまだ生きて、やりたい事は沢山ある」
真実を求めるのもそうだし、何よりその真実は……。
冗談でも言っているかのような軽い口調と、苦笑交じりの表情を見せる加持。だがその目は、逸れる事無くシンジを見返す。
それを認めたシンジは、口を開く。
「……では、僕達を手伝って頂けますか？」
「ああ、構わないよ」
「ありがとうございます。では、宜しくお願いします」
両者とも、その重大過ぎる内容に似つかわしくない、まるでちょっとした頼み事をするような、気負いの無い様子で言葉を交わしたが、シンジは最後に丁寧に頭を下げた。
雰囲気を変える事無く、加持は尋ねる。
「で、具体的には？」
「実のところ、サードインパクトを防ぐ“だけ”なら、何とかなります」
「……“だけ”？」
片眉を上げてみせた加持に、シンジは頷く。
「全十七体の使徒を倒した後、補完計画は発動される訳ですが……その寸前に、全ての事実――加持さんにお渡ししたものを暴露する。それによって生じる混乱のドサクサに紛れて、総司令達と老人共を始末する。これでまあ、何とかなると思います」
シンジは何でも無いかのようにそう言ったが、いかに混乱が起こったとしても老人達をどうにかするのは並大抵の事ではない。だが加持は、シンジが冗談か何かを言っているようには聞こえなかった。背中を冷汗が流れる感触に身が震え掛けるのを、辛うじて堪える。
「ですが、連中は現実に世界を支配していると言っても良いし、曲りなりにも世界を安定させているというのも事実です。それがいきなり無くなっては、大混乱は必至ですからね。『サードインパクトは防ぎました。代わりに第三次世界大戦が起きて人類が滅びました』、では洒落になりませんから……」
「……つまり、シンジ君としては、出来るだけ事を軟着陸させたい……と言う訳か」
「そういう事です」
「……“エゴ”という割にはヤケに――じゃないか？」
「なに、“ゲーム”はそれなりの難易度があった方が面白いですから」
探るように訊いてくる加持に、シンジは空惚けて答える。シンジの本音としては『エゴであるからこそ、不必要に関係の無い他人を巻き込むのは“趣味”ではない』といったところだが、態々目の前の男に言うつもりはない。お互いに狐と狸の化かし合いのような腹の探り合いだが、ここは加持が引いた。
「ふむ。それで俺は……？」
心持ち身を正して訊いてくる加持。
「“その時”に備えて、日本の他、各国政府、軍、国連……使える人材にアプローチして欲しいんです」
加持はその商売柄、顔が広い。どういう“顔”かは置いておくとして。
だからこそ、シンジがこういう話を自分に持ち掛けたのだと、加持は直ぐに理解出来た。
「なるほど、そういう事なら何とかなるだろう」
心当たりを何人か脳裏でピックアップしながら、加持は頷く。
「情報は可能な限りそちらに廻します。資金も――必要なら何とかします」
「情報か……。どちらかと言えば、そのソースの方が興味深いな」
「……手間だとは思いますが、抜道も使う人間が多くなってしまえば、抜道として用を為さなくなってしまいますので、それは勘弁して下さい」
「……そうか」
加持はシンジのその言を額面通り信じたりはしなかったが、追求はしなかった。そもそも自分がシンジ達にとって、完全に信用されるような立場でない事は良く解っている。相手がアドバンテージを維持したいと考えるのも、止むを得なかった。
僅かに溜息を吐きつつ、別の事を尋ねる。
「しかし、肝心のＮＥＲＶ内はどうするんだい？」
そちらは既に、些かあからさまな程動いているシンジであるが、
「ああ、駄目です。皆、其々の仕事は出来る人達なんですが……」
諦めるように首を振って否定し、推測を述べる。勿論仕事の出来ない人間もいるが、それを口にする事はない。
「司令達が欲しているのは『思う通りに動いてくれる駒』ですからね。自分の意志で動く人間は、そもそもＮＥＲＶに入れなかったんでしょう。無論、協力してくれる人がいてくれるなら、それに越した事はありませんが……最悪でも、最終局面で司令達に付かないでくれれば良いです」
何だかんだと言っても、ＮＥＲＶ内がゲンドウ達の勢力圏である事には違いが無い。下手な事をしてその人が危険に晒されても、フォローし切れない。
そう続けたシンジに、ＮＥＲＶの中でも自分の意志で動ける貴重な例外である加持は、苦笑しつつも納得した。
「あと……それと関連してと言うか……もう一つ」
コードやパイプが引き出されたＣＡＳＰＥＲの傍らで、パーツを椅子代わりに座ったマヤが、携帯端末を使って一心に入力作業を続けていた。ポッカリ開いた作業坑からは、盛んになにやら作業音が聞こえてくるが、耳に入っている様子は無い。
中では膝を抱え込むようにして身を小さくしたミサトが、リツコに言われるままに道具や部品を手渡していた。只黙々とソレを続ける事に耐えられなくなったのか、ミサトは口を開く。
「……大学の頃を思い出すわね」
「……レンチ取って」
そんなミサトを無視するかのように、仰向けになって寝そべり隙間に頭を突っ込んでいるリツコが要求する。差し出された手にレンチを乗せ、ミサトは言う。
「ね、少しは教えてよ、ＭＡＧＩの事」
「……長い話よ。その割に、面白くない話」
手を休める事無く、しかしリツコは応えた。
「人格移植ＯＳって知ってる？」
「ええ……。第７世代の有機コンピューターに、個人の人格を移植して思考させるシステム。ＥＶＡの操縦にも使われている技術よね」
「の、第１号らしいわ。母さんが開発した技術だから」
「お母さんの人格を移植したの？」
「そう」
言いつつ最後のカバーの表面に電動カッターを当て、わりかし無造作にスイッチを入れた。耳の奥を掻き毟る音と共に火花が散り辺りが明るくなるが、リツコは表情を変える事無くカバーを切っていく。
やがて音が停まり、切り取られた部分が取り払われ、ＣＡＳＰＥＲのＣＰＵが露わになった。まるで灰褐色の脳髄のようだが、その表面にある幾つかの端子口の存在が、それを自然のモノであらざる事を証明していた。
「言ってみれば、これは母さんの脳味噌そのものなのよ」
「それで、ＭＡＧＩを守りたかったの？」
「……違うと思うわ」
少し考えて、否定の答えを返す。その答えが自分の本音であるか、実際の所はわからなかったが。
「母さん、そんなに好きじゃなかったから。科学者としての判断ね」
「葛城さん――あの人をなんとかして貰えませんか？」
どこか疲れたようにそう言ったシンジに、加持は顎を撫でながら探るような目を向ける。
「はっきり言って、今のあの人の存在はこちらにとって邪魔でしかありません。いや、それだけじゃない。今のところ、葛城さんは僕に対する反感が勝っているようですが、ＮＥＲＶに対して不信感を持っているのも間違い無い。下手をすれば司令に排除されるかもしれません」
シンジにしてみれば邪魔さえしてくれなければ構わない為、その手段を穏便な方法で済ませる事も出来る（無論、“殺す”という選択肢も存在する）。だがゲンドウにとって、邪魔になった役立たずの駒への対応は、殆んど一つしかない。
「……なんで、俺に言うのかな？」
「……お二人が大学時代に付き合っていて、別れた今も未練たらたらだと言うのは、調べが付いてます」
「そんな風に見えたかい。それはちょっと恥ずかしいなぁ」
「…………」
惚けるように言う加持を、どことなく白い目で見遣っていたシンジだが、やがて唐突に一つの言葉を口から吐き出した。
「芹沢ヒロコ」
「！？」
何の脈絡も無いその言葉に、しかし加持は動きを止める。
「万城目ユリ、神宮寺シズカ……」
「…………」
「高屋ノリコ、樋口キミコ、天野カズミ、橿原レイコ……」
「ま、待ってくれ、シンジ君っ！」
シンジが名前を挙げる毎に何故か発汗量を増やしていった加持は、慌ててそれを遮った。
「なにか？」
「いや……ちょっと待ってくれ」
空々しく訊き返すシンジに、加持が呼吸困難に陥ったような声で繰返す。
相手の弱みを突くようなやり方だが、加持の方もシンジに対してアスカとレイが弱点となり得る、と当然考えている筈である。シンジはこれもお互い様だと、四六の蝦蟇そこのけになった加持の顔をさしたる感慨も無く眺め遣る。
「別に良いんですよ。葛城さんが使う理屈――『人類の為には仕方が無い』というのを、彼女自身に適用しても」
「……」
それは非常に困る。しかしＮＥＲＶが、そしてミサトがその理屈で子供を戦争に駆り出している事を知る身としては、何も言えはしなかった。
シンジにとってミサトは非常に扱い難い存在だった。無理に味方に引き込む程のメリットは無いし、無視をするにしても「ＮＥＲＶ作戦部長」という立場は大き過ぎる。かと言って排除するにしても、ゲンドウ達のような明確な害意が無いだけに、今のところそこまで思い切れない。――いざとなれば、容赦などするつもりは無いが。
「分かった。なんとかするよ」
「ええ、そうして下さい」
肩を竦め気味に言ったシンジを、加持は判らないように溜息を吐きながら見遣る。
「……それにしても、葛城に厳しいんじゃないか、シンジ君」
「そうですか？ しかしまあ、葛城さんには同情はしますけどね、好意は持てません。実際今までに、散々迷惑を蒙ってますから。特に、会った初日が酷かったですし」
別段シンジは、他人に対して無条件に寛容ではない。悪意（意識しているか否かを問わず）をぶつけてくる相手に、良い感情を持てないのは当り前だった。
「……出会いが最悪だった、と言うなら、アスカもそうじゃないか？」
「アスカの事情は、会う前から知ってましたからね」
加持の指摘に、シンジは改めて思い返す。
「葛城さんの事も、ここに来る前に知っていれば、また違った関係になっていたんでしょうけど。……或いは、僕をＥＶＡに乗せるのに、ただ“頼んで”くれていれば……」
だが現実には、当初シンジが第３新東京に来たのは、少しばかりゲンドウの顔を見ておこうというだけのつもりであったし、ミサトはミサトで（意図してかはともかく）ゲンドウの仕組んだ茶番劇の尻馬に乗った。それから後も……言うまでもない。
「復讐――だって、別にそれ自体は軽蔑したりはしません。自分の大事なモノが傷付けられたり奪われたりすれば、それに対して怒るのが当然ですから。葛城さんは、ただ言えば良かったんです。『復讐に手を貸してくれ』って。そうすれば――」
――恐らく、シンジはミサトに荷担する事になっただろう（ミサトが考えているのとは違う形になったかもしれないが）。もっとも、そういう事が出来る人間なら、そもそもミサトはＮＥＲＶの作戦部長になどなれなかったろうが。
「それでも……僕は葛城さんを許容すべきだったんでしょうか？」
一度、目の前の空のカップに視線を落としてから顔を上げ、そう結んだシンジに、加持は沈黙を返すしかなかった。
提訴議決画面でのＢＡＬＴＨＡＳＡＲの部分が、全て赤く染められた。
「来た！ ＢＡＬＴＨＡＳＡＲが乗っ取られました！」
警報と、日向の叫びが重なる。
『人工知能により自律自爆が決議されました』
更に物騒なアナウンスがそれに被る。人間の神経を逆撫でするかのように、淡々とそのアナウンスは続いていく。
『自爆は三者の一致後コンマ２秒で行なわれます。自爆範囲はジオイド深度マイナス２８０、マイナス１４０、ゼロフロアーです。特例５８２発動下の為、人工知能以外によるキャンセルは出来ません。人工知能により……』
だが、それでもリツコは、端末の上で踊る指を止める事は無い。端子を差し込まれたＣＡＳＰＥＲに、次々とプログラムを流し込んでいく。
そうしている間に、続いてＣＡＳＰＥＲが他の二基からのハッキングを受け、抵抗も空しく次第に赤の領域を増やしていった。
その様に、流石の冬月も焦りを隠せず、青葉のシートの背を掴む手に力を込める。
「押されてるぞ……」
「なんて速度だ！」
『自爆装置稼動まで、後２０秒』
人間達の焦りに関係無く告げられるアナウンス。
「いかんっ！」
「ＣＡＳＰＥＲ、１８秒後に乗っ取られますっ！」
『自爆装置稼動まで、後１５秒』
「リツコ！ 急いでっ！」
姿の見えないリツコに向けて、叫ぶミサト。それが、相手を余計焦らせる事になると気が付かないのだろうか。
しかし、それに動じる事無くリツコ、そしてマヤはひたすらキーを叩き続ける。
『自爆装置稼動まで、後１０秒』
「大丈夫。１秒近くも余裕が有るわ」
「１秒って……！」
「ゼロ、マイナスじゃないのよ」
それどころか、平然とミサトと言葉を交わす。
「マヤ！」
「いけます！」
更にカウントダウンが続く中、リツコとマヤは最後の詰めに入る。
「押して！」
同時に押されるリターンキー。
ゼロに達しようとしたカウントは、そこで停まった。
赤く塗潰されようとしていたＣＡＳＰＥＲは、最後の一ブロックを残しそこで動きが無くなる。
と、その一ブロックを基点として、画面は見る間に今度は青く染まっていく。まるでこれまでを高速逆再生しているかのように、それはＢＡＬＴＨＡＳＡＲとＭＥＬＣＨＩＯＲに広がっていった。
『人工知能による自立自爆が解除されました』
全てが旧に復すると、“彼女ら”は自爆を否決し、それを人間達に伝える。
『特例５８２、解除されました。ＭＡＧＩシステム、通常モードに戻ります』
その場に居た誰もが、一瞬全身から力が抜けた。だが続いて、其々が歓びを露わにする。
作業坑の中のリツコも、大きく息を吐き出すと背中を壁に預けた。
その目前のＣＡＳＰＥＲは人間達の思いも知らぬ気に、内部で静かに電子を遣り取りする。結局人間達は、この騒ぎが途中から出来レースに変わっていた事に、誰一人気付く事は無かった。
「ねえ、大丈夫なの？」
Ｒ警報が解除され、幾つかの打合せをした加持が食堂から出て行き、カップなどを片付けたシンジがテーブルに戻ると、アスカがもどかし気に訊いてきた。
「え？ ……ああ」
椅子に座りつつ、シンジはアスカの言いたい事に思い当たる。
「ま、大丈夫だと思うよ」
「……でもさ」
「アスカも極端だね。一度裏切られたら、もう二度と信用出来ない？」
シンジの揶揄に、尚も不安気な様子を見せていたアスカは『むぅ』と頬を膨らます。
「確かに加持さんは、今一つ信用の置けない人だけどね……。でも本来他人を完全に、或いは無条件に誰かを信用出来る方が少ない筈だよ」
残念な現実だが、現実である以上仕方が無い。シンジがそう言ってもアスカ、そしてレイも納得しきれない。彼女達の世界は、もっと単純な図式を持っていたのだから、それも無理は無かった。
シンジは二人に諭すように言う。
「……人間が持つベクトルは、それこそ千差万別。でも、目指す所が同じなら道が違っていても構わないし、違っても同じ道を歩く事は不可能じゃない。それで良いと思う。……ああ、無論『肩を並べ、足を揃え』と言うのが悪い、と言う訳じゃ無いよ。でも人の意思を無視して無理矢理そうしたら、補完計画を企んでいる連中と同じだろ」
だから、加持は加持の理由と意志で動いて貰って構わない。とは言え、流石にこんな風に考えるのは“中学生”としては些かならず問題がある気もしないでもない。
「でもホント、加持さんなら大丈夫だよ」
そう言うと、少し意地悪く笑う。
「二重スパイなんて、正体が知られていなければこそ、のモノだからね。その辺は、加持さん自身も解ってるさ」
ただ、ＳＥＥＬＥとＮＥＲＶ（ゲンドウ）に関しては、加持の正体を知っていて、尚且つ利用しているという、これまた異常な関係のようだが。いずれにせよ、雇い主が「邪魔」「利用価値無し」と判断すれば、あっさり処分されてしまう立場である。
流石にアスカ達の前で口には出来ないが、加持がシンジ達をＮＥＲＶやＳＥＥＬＥに売るつもりなら報復手段として――それを利用して加持を自らの手を汚さずに始末する事も出来る。
加持という男は火遊びは好きなようだが、別段破滅願望の持ち主ではあるまい。ならば、無条件とはいかなくとも、ある一定の範囲では信用して良かろう。もし、自ら望んで己の信用度を下げると言うのなら、そのように扱えば良いだけの事である。
それに加えてもう一つ。
「……なんなら、加持さんの“弱み”を教えておこうか？」
「……っ！？」
未だ人気の無い廊下を歩いていた加持は、言い知れぬ悪寒に身を震わせ、足を止めた。
首筋を撫でながら、辺りを見回す。自分の足音も消え、その場は静寂に支配されている。
「…………何だったんだ？」
パイプ椅子に俯き加減で座り、全身で「疲れました」と表現するリツコ。
だが、近付いてきた足に気付き、顔を上げる。
「もう歳かしらね。徹夜が堪えるわ」
などと冗談口を叩くが、含まれた雰囲気は内容程悪いものではなかった。
そんなリツコに、ミサトは両手に持っていたカップの内、一つを差し出す。
「また約束守ってくれたわね。お疲れさん」
「ありがとう」
素直に礼を言い、カップに満たされた熱い液体を啜る。
「ミサトの淹れたコーヒーを、こんなに美味いと思ったのは初めてだわ……」
との評に、ミサトは困ったように笑うだけで、反論はしなかった。そのミサトから視線を傍らのＣＡＳＰＥＲに変え、呟く。
「死ぬ前の晩、母さんが言ってたわ。ＭＡＧＩは三人の自分なんだって……」
それを聞いて、ミサトも“機械”を眺め遣る。
「科学者としての自分、母としての自分、女としての自分。その三人が、せめぎ合っているのがＭＡＧＩなのよ。 人の持つジレンマをわざと残したのね。みんな同じモノだと思ってるけど、実はプログラムを微妙に変えてあるの」
「…………」
「私は母親にはなれそうもないから、母としての母さんは解らないわ。だけど、科学者としてのあの人は尊敬もしていた。でもね……女としては憎んでさえいたのよ」
ミサトは、リツコがかつてここで見たものを知らない。そして、リツコの口から語られる女性が、かつてこの場で命を絶った事も。
だから、リツコの言葉の奥底にあるものに気付く事無く、ただ優し気な言葉を掛けた。
「今日は、お喋りじゃない」
「偶には、ね……」
リツコも、ミサトに理解を求めてそれを語った訳ではなかった。疲れからか、ただ心にあるものを吐き出したくなっただけかもしれない。
もう一度、ＣＡＳＰＥＲを見上げるようにする。
「ＣＡＳＰＥＲには、女としてのパターンがインプットされてたの。最後まで女でいる事を守ったのね……。ほんと、母さんらしいわ……」
「さて……。何はともあれ片付いたようだし、発令所に顔を出してから帰るとしようか」
そう言って腰を上げたシンジに倣おうとしたアスカは、不意に眉根を寄せて動きを止める。その様子に気付き、シンジとレイは視線を向ける。
「……どうしたの？」
「あいつら、結局アタシ達をほったらかしたままだったわね……」
憮然として言い放ったアスカの言葉を聞いて、シンジは喉の奥で笑いを漏らした。
そういう人達だと解っているので、今更シンジに失望は無い。所詮彼等が大事なのは、自分とごく一部の他人に過ぎない。いや本来、大抵の人間と言うのはそういうものであろうから、それは別に構わない。だが、いつもは「人類の為」「世界の為」という御立派な建前を振り翳し、そのくせ肝心な時にこのザマであるから簡単に馬脚を露わす事になる。
「こっちを子供と思って舐めてるのか、それとも本当に気が回らないのか……。どっちにしても、僕達にとっては都合の良い事さ。笑って許してやろうよ」
おどけたような物言いにアスカは表情を弛め、レイもほんの少し顔を綻ばせる。そんな二人に頷き返したシンジだが、自身はＮＥＲＶを甘く見たり油断するつもりは欠片も無かった。
三人だけしかいない為、やけに広く感じる食堂内を一瞥し、内心で頭を振る。
（でも、そんな風に考える辺り、やっぱり僕は歪んでいるよなぁ……ほんと）
そんな自嘲を内に隠しアスカ達に見せる事はせず、シンジはただ笑みだけを浮かべた。
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