ALL'S RIGHT WITH THE WORLD
第拾弐話 C-Part
「よっ」
トランクを片手に廊下を歩いていた加持は、前方の人影が誰かを悟り、軽く挨拶をした。
人影――シンジも既に加持に気付いていたのか、ロッカールームに入ろうとした足を止める。
「……まだ、避難していなかったんですか？」
「ああ、少し片付けておかなけりゃならない事があってね。最終便で撤退だよ。……また、葛城が無茶な作戦を立てたようだな」
「葛城さんは『成り行き任せの、出たとこ勝負』と書いて、『さくせん』と読むようです」
「……手厳しいな」
シンジの辛辣な皮肉に、加持は頭を掻いて苦笑した。ミサトを弁護しようにも、実際に苦労しなければならないシンジを前にしては、上手い言葉が出て来ない。
「しかしまあ……あんまり葛城を苛めないでやってくれないか、シンジ君」
「それは葛城さん次第ですね」
「そうか……。ま、それもそうだな……」
シンジとしては多少の不手際や失敗は許容するが、それが私怨に巻き込んだ挙句に、となれば話が違ってくる。加持もその辺の事を察したのだろう、会話が途切れる。
ややあって、加持が最後に一言言ってその場を離れようとした時、シンジの方が先に口を開いた。
「ああ、加持さん。ちょっと待っていてもらえますか？」
「ん？ ああ……」
言ってロッカールームに入っていくシンジ。その背中を見送った加持が大して待つまでも無く、再び廊下に出てくる。
「……落し物です。加持さんのでしょう？」
差し出された見覚えのある財布に、加持は僅かに片眉を上げた。
「確かに俺の物のようだ……。どこに落ちてたんだい？」
「勿論、この本部ですよ」
抜け々々と言ってのけるシンジに、加持も追及するような事はしない。手渡された財布の中身を確かめる事もせず、ただ掌の上で転がすようにする。
と、その動きが止まる。札入れの部分に白い紙片があるのに気が付き、目を細める。
だが、それについて何かを言う事無く、財布を上着のポケットに納めた。
「いや、助かったよシンジ君。この間から探していたんだ」
「そうですか」
加持は男臭くニッと笑うと片手を挙げる。
「それじゃあ、俺はこの辺で失礼させてもらうよ。……死ぬなよ、シンジ君」
「ええ、別に死ぬつもりなんかありませんよ」
気負いも無いシンジの言葉に頷き、加持はその場から歩み去った。
目を赤くしたミサトが悄然とした足取りで発令所に入ってきたのを、マヤの脇に付いていたリツコが目敏く見付け、振り返る。
「どこに行ってたのミサト。時間が無いのよ」
「ごみん……」
歩み寄りながら消え入りそうな声で謝る。だが、立ち止まると、やや声を大きくする。
「……撤退よね。……急ぎましょう」
「…………」
「……何よ」
腰に手を当て無言のまま睨むような目を向けるリツコに、ミサトは戸惑う。
「シンジ君達は出撃準備中よ。ｎ２爆雷とＶＴＯＬの手当ても付いたわ」
「へっ？」
ミサトは意味が全く分からず、間の抜けた声を出した。深々と溜息を吐くリツコ。
「シンジ君の伝言よ……。『今回はサービス。次は無い』……だそうよ」
「……」
それでも事態を把握出来ないミサトを放っておいて、リツコはスクリーンに向き直り、手を止めているマヤに言葉を掛ける。
「続けるわよ」
「は、はいっ」
「……まぁったく、アンタもお人好しよねぇ」
「そうかな」
廊下を並んで歩きながら、アスカがシンジに話掛ける。
「だって、そうでしょ。ミサトのバカの事なんか、放っておけばいいのに」
「確かに逃げ出した方が、楽ではあるね」
使徒を地上に下ろしてから――タダで下ろすつもりは無いが――改めて殲滅する。それで十分の筈だった。（もっとも、“アダム”を囮に、使徒を別の場所に引寄せてそれから殲滅する、という手もあるが流石にこれは使えない）
「……まったく、簡単に言ってくれちゃって……ミサトの奴」
「本来、使徒殲滅はあくまでサード・インパクト阻止の為の手段に過ぎないんだけどね。だから、逃げるのは十分に作戦の内の筈だけど……」
特にシンジ達にとってはそうである。更に言えばインパクトさえ阻止出来るのなら、殲滅は必要条件ではない。場合によっては、共存しても一向に構わない。
「葛城さんにとっては使徒殲滅が目的だからね。危ない橋を渡る事になっても、使徒に背を向けたくない……そういう事だろ」
「渡るのがミサトだけなら何も言わないわよ。でも、真っ先に渡らなけりゃならないのは、アタシ達なのよ」
シンジに不満をぶつけるのは筋違いだと分かっていても、アスカは愚痴を零さずにはいられない。更に続けようとしたが、丁度エレベーターの前に辿り着いた為、言葉を切る。
乗り込みスイッチを押すと、乗客に一瞬の浮揚感を味あわせて沈んでいく。
メッシュになった面を通り過ぎていくライトを眺めながら、暫く無言が続いたが、
「何？」
チラリと横目で自分の方を窺うアスカに、シンジが尋ねる。
「……思ったんだけどアンタって、平気で『逃げる』って言葉を口にするわよね……」
普段の「怖い物など何も無い」というようなシンジを見ていると、その言葉は妙に違和感がある。首を捻るアスカに、微苦笑してシンジは応えた。
「戦うのはそれに意味なり価値なりが有る時か、どうにもならない時だけで十分。後は逃げ出したってちっとも構わない。僕はそう思ってるからね」
「ふ〜〜ん……」
半分だけ納得して声を上げるアスカ。
「んで、今回の意味は？」
「ま、ＮＥＲＶに貸しを作る、といったところかな。葛城さんを完全に敵に回すのも面倒だし……。何より今回は、逃げ出す程の相手でもない」
ＮＥＲＶの監視網は、現在使徒をＬＯＳＴしている。だが、シンジはファウストが使徒に張り付いているお陰で、今尚リアルタイムでデータを受取れていた。それを検討する限りでは、使徒を受止めるのはミサト達が考えている程賭博じみたものではなかった。
「ま、どうせアンタは奥の手の一つや二つ、有るんでしょうし……」
「そう言うアスカだって、まだまだ余力があるんだろ？」
「まあね」
アスカがそう応えた時、エレベーターがケイジに到着する。
三人の前に、主を迎え入れるべく三機のＥＶＡが佇んでいた。
彼等がこれから起こそうとしているのは奇蹟などではない。人の手によって起こされる、必然の結果だった。
「……ｎ２兵器の爆圧をバリアーにする――か。シンジ君も無茶な事を考えてくれるわね……」
目の前のスクリーンを眺めながら、ミサトが呆れたように独言ちる。
「アナタがソレを言う？」
「…………」
だが、リツコに冷たく突っ込まれ、バツの悪そうな顔を向けた。
「そ、それで……上手くいきそうなの？」
「……見ての通りよ」
リツコが顎で示した先では、ＣＧによる第３新東京上空に巨大な球が出現。更に上空から降下してきた使徒を表すシンボルマークがそれに遮られ、一旦速度を減じてから地上に達する。ＭＡＧＩの演算によるシミュレーション映像。それがパターンを様々に変え、繰返されていた。
「隕石や弾道ミサイルを相手には、こんな手は使えないけど――」
自身も呆れているのか、リツコも溜息を吐く。
「――今度の相手は随分と“薄べったい”から……。ｎ２航空爆雷の攻撃や、使徒自身の誤差修正用の爆撃のお陰で、ＡＴフィールドのデータも有るし……」
第３新東京上空にn２兵器を載せた無人ＶＴＯＬを待機させ、落下してくる使徒の予想進路に持っていく。そしてタイミングを合わせて爆発させて傘にする。
無論、使徒のＡＴフィールドは、それが身体を傷付ける事を許さないだろう。だが、フィールドは物理現象を防ぐ事は出来ても、キャンセル出来る訳ではない。
「ただ、爆発直後は目標を見失う事になるし、進路もずれてしまうわね」
「……大丈夫なの？」
「だからこそ、こうやって何度もシミュレーションをやっているんでしょ」
ＶＴＯＬの配置や爆発のタイミング。それらはＭＡＧＩによるコントロールで行なわれる事になっているが、今ここで繰り広げられているのは最適なモノを見付け出す為である。
「少なくとも、アナタの原案のままよりは余程マシね」
そのリツコの評にも、ミサトは何の反論も出来ない。その顔をチラリと見て続ける。
「『数％の速度減退、一秒の時間的猶予でも良い。それを得る為の努力をする事こそが作戦』。……これもシンジ君よ」
ミサトは無言のまま、唇を強く噛んだ。
地上に射出された三機のＥＶＡ。
それは本部直上を中心に置いた正三角形、その各頂点に配置されていた。
真北に零号機、東側に初号機、西側に弐号機が其々屹立する。
各々の機体に搭乗した三人は、緊張した様子も無く時を待っていた。
ＡＴフィールドを身に纏い、それを空気との摩擦で赤熱させながら、天空より御使いが舞い降りてくる。
「目標、最大望遠で確認」
「距離、およそ二万五千」
「……ＥＶＡ全機、スタート位置」
シンジが軽くレバーを握ると、初号機はクラウチングスタートの姿勢を取る。
零号機、弐号機もそれに倣うように腰を屈めて手を突く。
上空で三つ、僅かにタイミングをずらして花火が花開く。
網膜を焼かんばかりの閃光、そして輻射熱が地上に届く。
次いで衝撃波。最後に爆風がＥＶＡを打ち倒すように襲い掛かる。
数呼吸する間にそれは弱まったが、治まりきらない内にＥＶＡの背中から外部電源がパージされ、全機が同時に飛び出した。
爆炎を突き抜けた使徒の姿がスクリーンに映し出され、同時に表示された落下予測地点を見てリツコは小さく舌打ちする。
「よりにもよって、初号機が一番遠い……」
其処は弐号機と零号機の間、零号機寄りの地点だった。
風が巻き、ＥＶＡの後方で渦を作り機体を引き戻そうとする。
それを引き千切り、なおも前進する。
高圧線を飛び越え、ビルを砕き疾駆する三機のＥＶＡに、大地が鳴動する。
やがてリツコの予想通り、零号機が使徒の直下にまず辿り着いた。
足の裏を滑らせ地面を削りながら急停止すると、腕を伸ばし両掌を天に翳す。
見上げれば、使徒の虚ろな目が間近に迫っていた。
「っ！！」
無声の気合と共に展開されるＡＴフィールド。
それが使徒のＡＴフィールドと接触し、空間自体が軋みを上げ、熱と干渉光で周囲が紅く染まる。
使徒の落下を受止めきった零号機。
だが、使徒の大重量は、零号機の全身を容赦無く痛め付ける。
「っ……」
その苦痛にレイは気が遠くなりかけるが、歯を食い縛って耐え、使徒を睨み続けた。
弐号機を零号機の元に駆けさせながら、アスカは素早く頭を回転させていた。
弐号機は、間に合う。初号機も……少し遅れているが、これも間に合うだろう。
当初の予定通り三機掛かりで支えて、それから殲滅……でも十分過ぎる。
だが、苦痛に曝されているであろうレイを、放っておけるか？
半瞬で結論を出すと、走りながらプログナイフを抜き放った。
後の事はシンジに任せる。
「うりゃあぁーーっ！！」
アスカは雄叫びを上げた。
シンジは、弐号機のナイフが使徒の胴体を半ばまで切り裂いたのを見た。
と同時にコアが真っ二つになったのも感じ取る。
ならば、自分がすべき事はただ一つ。
最後の踏み切りで音速を超えた初号機は、横合いから使徒に飛び蹴りを食らわせた。
撥ね飛ばされ、もんどり打って山肌を転がる使徒。
その場に着地した初号機は、零号機と弐号機を引き摺り倒し、自分の腹の下に入れて庇う。
少し離れた所で起こる大爆発。
だがそれは初号機の張ったＡＴフィールドに遮られ、三機を傷付ける事は無かった。
未だ後始末の終わっていない発令所。
使徒を殲滅し生残った其処は、慌しいながらも安堵の空気に包まれていた。
その中で唯一手持ち無沙汰なミサトに、青葉が声を掛ける。
「電波システム回復。南極のぬらり――碇司令から通信が入っています」
「…………お繋ぎして」
「はい」
青葉の操作で浮かび上がるウィンドウ。そこには『ＳＯＵＮＤ ＯＮＬＹ』の文字が浮かんでいる。
「申し訳ありません。私の勝手な判断で零号機を破損してしまいました。責任は全て私にあります」
『構わん。使徒殲滅がＥＶＡの使命だ。寧ろその程度の被害は幸運と言える』
『……ああ、よくやってくれた。葛城三佐』
「ありがとうございます」
謝罪するミサトに、冬月とゲンドウが其々労わりの言葉を掛ける。顔の見えない向うで二人がどんな顔をしているかは、当然ながら分からない。
『ところで、レイはいるか？』
「……」
ゲンドウに問われて、ミサトは助けを求めるように周りを見る。だが、顔を向けられた者はさり気無く目を逸らすか、困ったような苦笑を浮かべるしかない。
『……どうした？』
「は、はいっ……。えっと〜〜……」
答えを促したゲンドウに、ミサトは思わず直立不動になるが、それでもなお口篭もる。
「……レイですが……ここにはいません」
意を決して事実を告げる。
「パイロットは、三人とも既に帰宅しました……」
『…………』
通信機からは僅かなノイズだけが、虚しく聞こえてきた。
「ふっふっふっ……。バカシンジぃ、アタシを除者にしようったって、そうはいかないんだから」
ファウストは、自分の目の前で含み笑いをするアスカに――表情に出す事は出来なかったが――非常に困惑してた。
シンジに、コンフォート１７で留守番するアスカとレイの事を任された筈が、何故かアスカに言い包められてしまっていた。アスカの“説得”は、ファウストにとって非論理的――良く言って屁理屈だった。にも関わらず、ここでこうしているいるのは、非常に不可解な出来事である。
（……後でシンジに相談してみよう）
取敢えずそう結論付けて、現状を再認識する。
彼等がいるのは、とある林道の路肩だった。舗装が所々剥がれたその道は、走る車も今は無い。
三人から十ｍ程離れたささやかな待避所には、中に人のいない車が一台停まっている。
「あの、惣流殿。出来るだけお静かに、それと平らかに願います」
溜息混じりに懇願する。
「お二人がいる以上、私もシンジの“目”を掻い潜れるだけの“隠形”を使えません。シンジの手口の裏を掻いて誤魔化しているだけですので……」
光学迷彩のように“積極的な隠蔽手段”は常人ならともかく、シンジ相手には誤魔化しきれない。何かあれば、直ぐに見付かってしまう。そう言ったファウストに、アスカは無言で頷いた。
口を閉じてしまえば、聞こえてくるのは葉擦れの音と梟の類の鳴き声しかない。何となく心細くなったアスカは、無意識にレイの傍に寄った。
暫く待つと、星明りでは有り得ない光が見えた。それは時折見えなくなりながらも、確実にこちらに近付いて来る。更に、登坂を強要されたエンジンの不満気な声も聞こえ、それは次第に大きくなってきた。
加持リョウジは前方に停止した車が見えた所で、スピードを緩めた。そのままゆっくりと近付き、路肩に寄りながら目標から数ｍの辺りで停車する。
車の中、そしてライトが照らし出す範囲に人影が無い事を確認すると、エンジンを切り車外に出る。周りを見回しても人の気配は無い。車体に寄掛かり暫く待っていた加持は、煙草とライターを取り出した。
暗闇にぽつんと火が灯り、吐き出した紫煙と共にヤニの匂いが辺りに広がる。
四呼吸程おいて、二口目を吸おうとした加持だが、
「……今晩は、加持さん」
「ぶっ！ げほっ！！」
横手から突然掛けられた声に咽てしまう。相手の神出鬼没ぶりは承知しており、それに備えていた筈だがタイミングが悪かった。
「……大丈夫ですか？」
気遣う声にも応えられず、咳き込みながら手を挙げるしかない。
それでも何とかそれを治めると、殆んど吸ってもいない煙草を捨て踏み躙る。
「……いや、お招きに応じて参上させてもらったよ。些か色気の無い場所であるが……」
「加持さんが御婦人方との密会によく使用される、特殊な宿泊施設で……という訳にはいかなかったので」
まずはジャブ代わりの軽口を叩き合う二人。
「で、今宵は何の御用かな、シンジ君？」
「ただ、お話がしたかっただけですよ。訊きたい事が幾つか有りまして」
「ほう、何でも訊いてくれ。だが、スリーサイズは秘密だぞ」
「そんなモノは、見れば直ぐに分かります」
シンジは肩を竦めて応えた。
「失礼ですが、加持さんの事は調べさせて頂きました。スリーサイズは元より……ね。アスカにも、勿論話を訊きました」
「君に興味を持ってもらえるとは光栄だな。で、俺なんかにそうまでして、どうしようっていうんだい？」
「貴方の為人を知りたかった……」
笑みを湛えた――しかし目は笑っていない――加持の顔を見据えたまま続ける。
「……正確には、貴方が信用に価する人間であるかどうか」
「……まいったな」
加持は頭を掻いて、より笑いを大きくした。
「俺は、そんなに信用が置けないように見えるかい？」
「見た目だけで判断する愚を冒すつもりはありません。ですが……首輪を三つも着けた狗は、どう評価されるべきでしょうか？」
その言葉に目を細めた加持は、やや冷たい眼光を向ける。
「ＮＥＲＶ特殊監察部所属・加持リョウジ。日本政府内務省調査部所属・加持リョウジ。そして――」
他方、シンジの声も低まる。
「――ＳＥＥＬＥのエージェント・加持リョウジ」
周囲に緊張が走る。だが、その源は加持だけで、シンジの方は変らずの自然体である。
やがて、加持が緊張を解いた。
「やれやれ……。そこまで知られてたか」
両手を肩の辺りに挙げ、「降参」と言うような仕草をする。
「しかし、どんな手を使ったんだい？ 是非とも知りたいな」
「それは、これからのお話次第ですね」
興味深々といった加持。もし彼が犬ならピンっと耳を立て、盛んに尻尾を振っていた事だろう。
それを抑え、シンジは改めて続ける。
「加持さん。貴方は何を望んで三重スパイなんかをやっているんです？ 何を求めているんです？」
「……スパイをしている事自体は、どうでも良いのかい？」
苦笑しながら顎を撫で回す。
「大した事じゃない。ただ、真実に近付きたいだけさ。俺の中のね」
「はぁ……。まあ、その為には適っているかもしれませんね、スパイというのは」
シンジは今一つ納得し切れなかったが、別段個人の主義主張、或いは趣味嗜好をとやかく言うつもりは無い。当人がそれに価値を感じていて、他人に迷惑を掛けるものでないならそれで良い。
それに加持が望んでいるものがそれなら、話の持っていきようはある。ただ、その前にもう一つ確かめねばならない事があったが。
「では、話は変わるんですが……。何故、アスカを護ってやらなかったんです？」
「……どういう意味かな？」
やや慎重になりながら問い返す。
「アスカの護衛を務めたのはドイツでだが……きちんと任務は全うした筈だが……？」
「そういう事を言っているんじゃありません。分かっている筈です、貴方には」
「…………」
「……ＮＥＲＶがアスカにどれ程異常な教育をしてきたか。彼女に施されてきた訓練は、“兵士”に対するものとしては全く不適切なものです。それに……」
大きく息を吐き出して、胸の内のモノを外に出す。
「……強がっていても、アスカは本来傷付き易い娘です。おまけにソレをＮＥＲＶに歪められてもいる。……そのアスカが“実戦”に放り込まれたら、遠からぬ内に壊れてしまう事は――貴方なら気付いていた筈です」
復讐に囚われているミサトとは違う。加持の能力と立場なら、それが可能だった……とシンジは判断している。
「……いやいや、参ったなぁ」
「…………」
「ま、確かにその通りなんだがね……。俺もしがないサラリーマンなんだ。雇い主の意向に逆らう訳には……ちょっといかないなぁ……」
「……三重スパイなんかをやっている人間の台詞とは、思えませんが」
「はっはっはっ、こりゃ手厳しい」
（厳しくない。断じて厳しくない）
シンジは内心で思い切り突っ込んだ。
どう考えてもスパイ稼業の方が危険な筈だ。アスカに余計な事を言った所で、クビになるのが精々だろう（誤魔化しようは、いくらでも有るし）。だが、スパイの末路は――言うまでもない。
「……結局、加持さんにとって、アスカは『真実』とやらに勝るものではない――という事ですか……？」
「まあ……そういう事だな」
「……仕方ありませんね。その選択は加持さんの自由であり、当然の――」
溜息混じりに「――権利」と続けようとしたシンジは、突然驚愕を顔に貼り付け後を振り返る。
釣られて加持が視線を向けた先には、見覚えのある人間が二人。一人はその場にぼうっと突っ立っていただけだが、もう一人は身を翻し夜目にも目立つ朱金の髪を靡かせ、駆け出していた。
「アスカっ！！」
焦りを大量に含んだ声が加持の鼓膜を叩いた時、その声の主は消失したかと思うような速さで加持の前からいなくなっていた。
「綾波、加持さんを抑えていて！」
横を駆け抜けながら一声叫ぶ。姿の見えないファウストにも、音声を使う事無く同様に。
「…………」
取り残された加持は呆気に取られて、あっと言う間に小さくなったシンジの背中を眺めていたが、一頻り頭を掻き回すと煙草のパーケージを取り出す。が、残りの少ないそれから一本を抜き出そうとした時、捲ったワイシャツの袖を軽く引かれてそちらを見る。
「やあ、レイちゃん」
「……」
「……あ〜〜」
気さくに声を掛けた加持だったが、冷たい目で見返され言葉に詰まる。
（まいったな……）
袖を掴まれている為、動作が続けられない。それに何より、
（……この首筋に刃物を突き付けられたような、冷たい気配は何だろうな……？）
後で縛った髪が逆立つような感覚に、加持は全身から冷汗を垂らしつつ硬直していた。
目が慣れたとはいえ月明りしか照らすものがない夜道を、不思議と転ぶ事無く駆け下っていくアスカを追いながら、シンジは二割程恐慌に陥りかけていた。
何の準備も無くアスカがアレを聞けば、こうなる事は予測が付いていた。だからこそ、まずは自分一人で加持に会おうとしたのだが。
シンジがアスカに追付くのは容易い。容易い事なのだが……。
（追付いて、どう言う？ あの加持さんは偽者？ 遊星からの物体Ｘ？ バルタン星人に操られていた？
……それとも、ぶん殴って気絶させ、悪い夢を見た――という事にするか？）
余計な考えがシンジの脚を遅くする。いや、無意識に追付く事を厭っていたのか。
以前、ＥＶＡの秘密を教えた時も、かなり危険だった。今回の事に匹敵していたか、それ以上の筈だった。
だが、あの時はアスカを抑える為に、『惣流キョウコが生きている』という切り札があった。
しかし、今は何も無い。シンジもどうしたら良いか分からない。
二人ともが混乱したまま、それでも二人の距離は次第に縮んでいく。
未だ数歩分の隔たりを残し、アスカが足を縺れさせ躓く。考えるより早く加速するシンジ。
地面に叩き付けられる寸前、アスカの片腕を掴み身体を引き上げる。
その礼代わりにシンジの顔面を襲うアスカの拳。
シンジはそれを受止めつつ、アスカの涙でグシャグシャになった顔を見て息を飲む。
捉まれた両腕を引いて、身体をシンジから引き剥がそうとするアスカ。それを止めようとする反動で、シンジは逆にアスカを引寄せてしまう。
シンジの胸に手を当て押し返そうとする。拳で殴りながら、意味の無い言葉を喚き散らす。
反射的にシンジはアスカを抱締める。
いくら暴れても、その拘束をアスカは外す事が出来ない。それを悟ったアスカは、唯一自由になる顔を動かし、届く範囲にあったシンジの肩口に噛み付いた。
「っ！！ 〜〜〜〜っ……」
加えられた痛みに、上げそうになった声を押し殺す。ただ、アスカを抱く腕に、更に力を篭める。
秒針が一回りしても、アスカはまだ口を離さない。
肩の皮膚が破れ血が滲み出しても、シンジはそこの筋肉を緊張させるだけで何も言わない。
更に回る秒針。鉄混じりの塩味が口内に広がっていくと共に、顎の力が弛んでいく。
「うくっ……」
漏れ出ようとする嗚咽を抑えようとするが叶わない。
「ぅああぁぁぁぁーーーーーーーーーっ！！」
シンジにしがみ付き、唯泣く。
シンジは何も言わない。いや、言う事が出来なかった。
それが哀しくて、悔しくて、シンジはアスカを強く抱いてやるしかなかった。
硬直した加持が時ならぬダイエットに勤しんでいると、それを監督していたレイが身動ぎをした。それに気付いてた加持も、軋むような音を立てながら首を巡らす。
ゆっくりと並んで歩きながら近付いて来る、シンジとアスカ。
アスカは時折目を擦りながら、それでももう片手はシンジの手をしっかりと握っている。
そんな二人に、加持の袖を掴まえていた手を離し、小走りに近寄るレイ。それと同時に、加持は自分に突き付けられた冷たい気配が無くなった事を感じ、盛大に息を吐き出し身体の力を抜いた。
崩れそうになる身体を膝に手をついて支え、荒い呼吸を繰返す。
金属の噛合いが解かれる音を耳にしてそちらに目を向けると、シンジがアスカとレイを車の後部座席に押し込んでいた。次いでシンジは前席に上半身を潜り込ませると、ダッシュボードから何かを取り出し、外に出る。
「……本当はもっと話すつもりだったんですが……今日はこれまでにしましょう」
加持に近付くと、手にした物を差し出しながら、疲れの混じった声でそう言う。
渡されたのはＤＶＤ−ＲＯＭと、無記名のＮＥＲＶのＩＤカード。
「こいつは？」
手にした二つを何度か引っ繰り返しながら、加持は尋ねる。
「セカンド･インパクトの真相、裏死海文書、Ｅ計画、アダム計画、人類補完計画、マルドゥック機関、その他諸々……が入ってます」
流石にそれ程の物を、これ程無造作に渡されるとは思わなかったのだろう。絶句した加持の目が丸く見開かれる。
だが、再び声を出した時、内心はともかくそれは既に十分抑制されていた。
「……良いのかい？」
「それが公になって困るのは、僕じゃありませんから……」
どうでも良さげに肩を竦めて続ける。
「ＩＤの方は、本部の一日フリーパス。使用開始後十二時間の間、ＭＡＧＩの監視を無効に出来ます。それで事を確かめたら、連絡して下さい」
「…………」
それだけ言うと、加持の返事も待たずに車に乗り込んだ。
シンジ達の乗る車がその場から走り去っても、加持は渡された物を手に、その場に立ち竦んでいた。
シンジの運転にしては、ゆっくりと車を走らせていた。
車内は微かなエアコンの作動音のみが空気を震わせている。
俯いたままピクリとも動かないアスカは元より、シンジとレイも唯黙然と其々の思考を巡らす。
やがて山道が切れ、前方に遠く第３新東京の灯りが見えた時、漸くシンジが口を開いた。
「……アスカ、綾波。……二人とも、僕に依存しないで」
突然の言葉に、掛けられた二人は戸惑う。その視線を背中に受け、続ける。
「信用や信頼はしてくれて良い。僕も全力でそれに応える。場合によっては利用してくれたって構わない。でも、依存はしないで……」
そう言われても二人には分からない。益々困惑の度合いを深めてシンジを見る。
「別段、僕は不死身じゃない。この戦いで命を落とすかもしれない。その時、二人が僕に“依存”していたら……二人共が壊れる」
シンジが死ぬ。
自分達を取り巻く状況は、生と死が隣合せである。考えてみれば、それは十二分に有り得る事だった。
にも関わらず、アスカとレイはシンジの事を『殺しても死なない』と思っているのか、その可能性に対しての現実感が乏しかった。
「僕が死んだら……僕の屍を踏み越えて行ってくれるくらいでないと……困る」
「……どうして、そういう事を言うの？」
なおも言葉を紡ぐシンジに、レイが堪らず尋ねる。
「……それを望んでいる人間がいるからさ。僕が死ぬのを……二人が壊れるのを……」
「…………」
「ＳＥＥＬＥと碇司令にとって、僕は最早補完計画の障害物でしかない。にも関わらず、まだ仕掛けてこないのは『使徒殲滅』が今のところ優先であるのと、加えて司令にとっては母さんの事があるから……」
狡兎死して走狗烹らる。……別に珍しい事ではない。だが、淡々と語られる事実に、アスカとレイは息を飲む。ましてや一方が、仮にも血を分けた息子に対するものとあっては。
「特に碇司令にとっては……綾波を再び自分の道具とする為に――人形に貶める為に、是が非でもやらねばならない……」
ゲンドウが保安諜報部やリツコにシンジの『処分』を検討させているのは、シンジにとって既知の事である。今更どうと言うものでもない。寧ろ、こちらも遠慮無くゲンドウを始末出来る――というか実際にその準備をしている。我ながら殺伐とした関係だと自嘲したくもなるが、優先すべきはアスカとレイ、それに自分自身という事である。
「だから、二人とも……僕に依存しないで……」
もう一度繰返す。
二人が沈んだ顔で俯いているのを見ると、今度は安心させるように小さく笑う。
「まあ、そう言ってもそれ程深刻になる必要は無いよ。碇司令も母さんが人質というような形になっている以上迂闊な事は出来ないし、反ってＳＥＥＬＥからは僕を守らなきゃならない。そのＳＥＥＬＥの死損ない共も、補完計画実行までは死にたくないだろうしね。何より、僕はそう簡単に死にはしないし。……ただ少しばかり、そういう心構えをしておいて欲しい――ってだけだよ」
そう言われても安心など出来よう筈も無い。アスカとレイは唯々押し黙る。
それ以上何も言わずステアリングをきるシンジに、ファウストが語り掛けた。
《……すいません、シンジ。私が惣流殿を抑えきれなかったばかりに……》
《いや、僕のミスだよ。アスカの事を――何と言うか――甘く見て、対処を誤った、ね……》
《しかし……》
《シカシもカカシもなし。幸い、最悪の事態は免れたんだ。……人間、理屈だけでは動かないし、世の中思い通りにいく訳でもない。今更だけど……それを教訓に、これから気を付けるとしよう》
《……はい……》
車内に沈黙を乗せたまま、シンジの運転する車は走り続ける。
その向かう先では、車のライトが群れを作って第３新東京に帰って行く。未だ遠くに見えるそれに加わるべく、シンジは緩やかにアクセルを踏み込んでいった。
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