ALL'S RIGHT WITH THE WORLD
第拾話 A-Part
「……使用された爆薬に焼夷剤が含まれていたらしく、また同時に通常の消火システムも破壊された為、延焼を防ぐのに地底湖の水を強制導入しました。セントラルドグマ・大深度地下施設は事実上壊滅。調査すらままなりません。ターミナルドグマに影響が無かった事は不幸中の幸いですが……」
司令公務室は憤怒、焦燥、怨嗟、悲嘆、恐怖といったモノが混ざり合い、渦を巻いていた。
そこにいる二人の男の希望――或いは希望と信じているモノ――が、根刮ぎに破壊し尽くされたとあっては無理も無かったが……
ゲンドウが留守中の出来事の報告を続けながら、女――リツコは男達を醒めた目で、その奥では暗い歓びをちらつかせながら眺めていた。
「また、その騒ぎに紛れて何者かがＭＡＧＩに侵入、ダミーシステムのデータが消去されました。バックアップも……」
それを聞いて唸り声を上げる冬月。ゲンドウはサングラスといつものポーズで目と口元を隠している為、その表情は窺えない。だが、その内心が穏やかである筈も無かった。
「……犯人について、何か手掛かりはあるかね？」
それでも気を取り直し、冬月が尋ねる。
「爆破した者については先程も言ったように、現場は調査すら出来ない情況です。ＭＡＧＩの方にも……監視記録が消されていましたので……」
「では、ＭＡＧＩへの侵入者は？」
「第二発令所からの侵入である事は記録に残っています。ただ……」
「？ どうしたのかね？」
「……司令のＰＡＳＳが使われているんです」
リツコがゲンドウに目を遣ると、冬月も思わず横下方に視線を向けた。二人の視線の先のゲンドウは、無言のまま身動ぎもしない。
ＳＥＥＬＥの手も届かないと信じていた場所を、こちらを嘲笑うかのようにいとも簡単に蹂躙した何者か。三人は、それが今にも自分達の心臓を掴み出すかのような錯覚を覚えた。
冬月はそれを振り払うかのように溜息を吐くと、リツコに顔を戻す。
「……一つ良いかね。シンジ君は……？」
「少なくとも、爆破が行なわれた時間には自宅にいた事が確認されています」
それは、リツコも真っ先に考えた事だった。
「では、“彼”はどうかね？」
「そちらも、不審な点はありませんでした」
答えながらもリツコは、あまり当てにならない事が分かっていた。特にシンジは、保安諜報部がまともに近付けない為、遠距離からの監視である（それですら、時に襲撃を受けるが）。いくらでも誤魔化される可能性があった。
ただ、もし二人がこれに関っていたとしたら、その意図はなんなのか。ＳＥＥＬＥと関りがあるのなら……ダミーの開発はＳＥＥＬＥの意志でもある。それを頓挫させる理由が分らなかった。或いは、こちらの補完計画が漏れている可能性もあるが。
「何れにせよ、ダミーの開発は……」
認めたくない事を渋々……といった感じで冬月が口にする。
「はい……開発は停止せざるを得ません」
どの道、初号機がレイを受け入れようとしない、そしてその原因が分からない以上、ダミーをいくら作ったところで無意味だった。
それに、カプセルに入れたレイをにやけた顔で眺めるゲンドウを、これ以上見ないで済むのはリツコにとってありがたかった。いや、綺麗さっぱり無くなって、いっそスッキリしたと言うべきかもしれない。
「……犯人探しは元より、これからどうするかだな。老人達を……――碇、何を！？」
頭を悩ませながらも、善後策を講じようと話し掛けようとした冬月は、只ならぬゲンドウの様子に声を大きくする。
「レイを本部内に移させる」
余裕の無い声で答え、受話器を上げようとするゲンドウ。今迄聞いた事も無いようなゲンドウの口調に驚きながらも、冬月はその手を抑えた。
「やめろっ、シンジ君が黙っていると思うのかっ！？」
シンジがＮＥＲＶのレイに対する扱いを快く思っていない事は、報告を受けている。レイを同居させているその裏の意図は分からないが、シンジがレイを元の環境に戻すような事を許すとは思えなかった。
「所詮は子供……」
「その子供に、保安諜報部がどう扱われているか分かっているだろう！？ レイを取り上げるとなれば全面戦争になるぞっ！」
「…………」
傍で聞く者がいれば「何を馬鹿な」と一笑するような事が、殆んど事実であると冬月は実感していた。頑ななゲンドウも、そこまで言われると沈黙し動きを止める。
嘆息しながら冬月は、ゲンドウが未だシンジを“息子”と見ている事を察していた。無論、良い意味――或いは一般的な意味でのそれではない。親が自分に都合良く扱える存在として、である。
普通の子供とて、いずれ親の手元から離れて行くものだが、シンジは疾うの昔にゲンドウの思惑を外れた存在になっている。冬月の目にはそれが既に明らかだったが、それをゲンドウが認めようとしないのは“甘え”があるからだろうか。
「思い出せ。お前の目的は何だ？ レイもシンジ君もその為の手段でしかないだろう？
手段に拘って目的を忘れては、本末転倒だぞ！」
歯を食い縛るゲンドウの耳元で囁いてやる。
（……レイに拘り過ぎだな）
組んだ手に力を込め、何とか気を落着かせようとしているゲンドウを見遣りながら、冬月は内心でぼやく。
「……まだ、時間も方法もある筈だ」
自分にも言い聞かせるような冬月の言葉だった。
そんな二人の様子を眺めながら、リツコはシンジの言葉を思い出していた。
『敵は、殲滅せねばならない』
その時のシンジの声と目が脳裏に蘇り、リツコは身震いする。
あのコはきっとそうするだろう。
微塵の躊躇も無く。
あらゆる手段を使って。
そして自分達にそれを止める手段は無い。
根拠など無いが……リツコは頭のどこかで――全くもって非科学的であるが、それは勘としか言いようが無い――それが事実であると理解していた。
目の前の男達はそれが分かっているだろうか？
（分かってなんか――いないわね……）
一度殴られて以来まともに息子と顔を合わそうともしない臆病な男と、礼儀を守り一線を越えないが故にあの目を向けられる事が無かった似非紳士。
自分がシンジから浴びせられたプレッシャー。その半分も経験していれば、レイを云々などと言ってはおれまい。そして、未だシンジを利用出来るなどという事も。
リツコは内心でそんな愚かな男達を嘲笑いながら、その男から離れられない自分自身をも省みて笑うしかなかった。
ＮＥＲＶ職員の大多数は、セントラルドグマで何かが起こった事を察していても、何が起こったかまでは分らなかった。そもそも、そこに何があり何が為されていたのかを知る人間が、殆んどいなかったのだが。
それを知る数少ない人間の一人、伊吹マヤはダミーシステムの開発休止をリツコから告げられ、心からほっとしていた。それはシンクロテストの準備を進める、キータッチの動きからもあからさまに見て取れた。
「先輩、準備完了しました！」
そう告げる声も明るい。
「そう、じゃあ始めましょうか」
それを羨ましく思いながら、リツコはテスト開始を宣言してマイクを手に取り、待っているアスカとレイに繋いだ。
プラグ内のアスカは注水されたＬＣＬに顔を顰める。
元からこの血の匂いと味は好きになれるものではなかったが、正体を知ってしまった今では更に嫌悪感が募った。
（そうは言っても、仕方無いのよねぇ。……今更だし）
『それに……』と思う。
満水になると目を閉じ、シンクロを開始する。だが、いつもと違い、気負いは無い。シートに身を任せるように身体の力を抜いた。
（どうして、これに気付かなかったんだろ……）
全身を包む心地良さを感じる。
誰かが自分を見詰めているのが分かる。
「ママ……」
気泡と一緒に微かな声が口から漏れる。
（ずっと、ここにいたのね……アタシを見ていてくれたのね……ママ……）
閉じた目から涙が溢れ、ＬＣＬに溶けていった。
「せ、先輩！ これっ！」
管制室ではシンクロ率の表示を見ていたマヤが、驚きの声を上げていた。その声にリツコだけでなく、ミサトも釣られてモニターを覗き込み、そこに出ていたアスカのものの数値に眼を瞠る。
「なっ！？」
「ちょ、ちょっと……！？」
二人は絶句すると、申し合わせたように顔を見合わせた。
「……リツコ、どうなってんのよ？」
「そんな……いきなり、こんな数値……。マヤ、システムに異常は無いのね？」
「は、はい……」
ミサトに問われても、リツコにも分かりはしない。マヤの返事を聞いても、頤に手を当て考え込むしかなかった。
リツコはモニターに映るアスカの顔を暫く眺めると、続いて心拍や心理グラフの表示に目を遣る。アスカの表情はいつに無くリラックスしているように見え、数値もそれを裏付けている。ただ、シンクロ開始前後に多少の乱れが生じていたが。
「アスカ、調子はどう？」
『……別に。いつもと変わんないけど』
プラグ内に呼び掛け、返ってきた声を聞きながら沈思するリツコ。
（……シンジ君、なのかしら？）
思い当たる事はそれだった。セントラルドグマが爆破された夜、アスカがシンジの家に行っている事、そしてその後居着いてしまっている事は報告が来ている。そして、その直後の、このテストでのシンクロ率の大幅な上昇。何かあると考えた方が自然だった。
「マヤ、テスト終了。二人を上がらせて頂戴」
とにかく、今はアスカに話を聞くしかない。そう判断したリツコは、予定より早いテスト終了を告げた。
ＥＶＡから降りたアスカとレイは、中々話し出さないリツコに揃って怪訝な表情――程度は其々だが――を向けた。ついでに言えば、リツコの後ろに控えたミサトとマヤもなんと言うか、困ったような顔をしていた。
「……な〜によ。なんか変な事でもあったの、リツコ？」
「いいえ……ううん、変と言えば変ね……」
焦れたアスカが腰に手を当てて尋ねると、リツコは曖昧に応えを返すと溜息を吐く。
「……アスカ、今回のアナタのシンクロ率だけど……９９．６％よ」
それを聞いたアスカは一瞬眉を上げると、殊更に胸を張ってみせる。
「……ま、天才のアタシにはそのくらい当然ねっ。シンクロ率を上げるくらい、ぺぺぺのぺーよ！」
リツコはそう言ってのけるアスカを冷静に観察した。いつものような高慢な台詞を吐くアスカだったが、どうもこれまでのような張り詰めたモノが感じられない。憑き物が落ちた、とでも言おうか。
そもそも、アスカにとって至上命題とも言うべきシンクロにおける高成績――それを殆んど限界の数値を叩き出したというのにどこか醒めている。或いは、突っ掛かる対象であるシンジが居ない所為かもしれないが……。
実際の所、アスカにとって今回の数値は、ただ単にシンジから聞かされた話が事実として客観的に示されただけの事である。そしてシンクロ率というのが他人と比較する意味の無いモノと知れば、今迄その数値の上下に一喜一憂していた自分が馬鹿であった、と自嘲するしかなかった。
ただ、シンジから「出来るだけＮＥＲＶに不審を持たれるような振舞いをするな」と言われている為、それらしく格好を付けてはみたが。
「……ねぇ、アスカ。なんかあったの？」
「なんか、って何よ？」
口を挟んでくるミサトに、逆に訊き返す。
「えっと……だから〜……。こないだの今日よ。それがいきなり……」
「男子三日会わざれば刮目して見よ、って言うでしょ」
「……アナタは女の子だわ」
「乗ってて変わった事が無かった？」
突っ込みを入れたレイ（本人が意識しているか不明だが）に、軽く驚きながらもリツコが質問する。
「別に……。いつも通りやっていただけだけど」
「いつも通り……ね」
リツコはボールペンでこめかみを掻きながら、手にしたクッリプボードを眺めるフリをする。
「……シンジ君が何か言ったのかしら？」
そこから目を上げると、単刀直入に切り込んでみた。
一瞬表情が消えるアスカ。
「……何でそこでシンジが出てくるワケ？」
「アナタ達、最近仲が良いみたいだし……。シンジ君の家に居着いてしまったようだし」
来日した当初は、殆んど敵対的とも言える関係だったのに、何があったのか。それを何とか聞きだそうとしたリツコだったが、
「ちょ、ちょっとアスカ、それホント？ ちょっちマズイんじゃない、それは？ ――つーか、いつの間にシンジ君と仲良くなったのよ？」
慌てて身を乗り出してきたミサトに遮られる。
（……ミサト、気が付いてなかったの？ お隣でしょう、アナタ……？）
リツコは頭痛を覚えて額を抑えた。ミサトがシンジ達の同居に気が付かなかった事にだけではない。それよりもリツコが意図した方向から、話が外れてしまう事が問題だった。
「別に良いじゃない。住所はあくまでＮＥＲＶの官舎よ。シンジのトコには泊まっているだけ。ＥＶＡのパイロット同士だし、問題無いでしょ」
「問題無いワケないでしょ。年頃の男と女が二人っきりで、同じ屋根の下なんて……！」
「あら、レイも一緒だけど」
「そう、それなら――って余計悪いじゃないのっ！」
「そうよ、アスカちゃんもレイちゃんもフケツよっ！」
頭痛に耐えているリツコが口を挟めない間に、案の定、話が妙な方向に行っていた。おまけにマヤまで加わり出した。この分では話を聞く事も出来そうに無い。
どうやらアスカ――そしてレイも――がシンジに取り込まれてしまったのは間違い無さそうだった。だが、シンジはアスカに何を教えたのか。もし、ＥＶＡの“事実”を知ったのなら……アスカがＮＥＲＶに敵対する事すら考えられる。
ゲンドウは、場合によってはアスカをシンジにぶつける事を考えていたようだが（リツコは相手もにならないと思っていたが）、何れにせよこの分では画餅に終わりそうだった。
そんな事をリツコが考えている内に、アスカとミサト達の話は続いていたが、
「……うっさいわね。文句があるならシンジに言ったら〜」
「う……」
『これ以上とやかく言うと、シンジを嗾けるわよっ』との、アスカの言外の脅迫にミサト――そしてリツコも追及を断念するしかなかった。
「……やはり、君か」
「どうも。……怪しげなメールで呼び出して申し訳ありません」
「いや、構わないよ。君とは、また話してみたかったし。……どうやってここに入って来たかは知らないが」
「まあ、それは企業秘密と言うことで」
「はは……。で、どんな用件なのかね？」
「……ＪＡ……開発を続けておられるようですね」
「うん？ ああ……物証は無いが、アレはＮＥＲＶの仕業らしいという事になったのでね。私の首も繋がったし……。君のお陰かな」
「いえ。ですが、ＪＡの開発は間に合いませんよ」
「何……？」
「ＪＡが実戦投入出来るようになるまでには、全てが終わってしまっています」
「……どういう事かね？」
「ＮＥＲＶが使徒来襲のスケジュールを知っている……としたら？」
「……なんだと」
「正確にはＮＥＲＶの首脳と、その上の存在が……なんですけどね」
「…………」
「いきなりこんな事を言っても信じられないでしょうね。ですから一つ。
……間も無く次の使徒が現れます。名前はサンダルフォン」
「…………」
「……今日のところはこれくらいで。失礼します」
「待ってくれ。……何故私にそんな事を？」
「……連中の“計画”は、絶望と妄執から生まれたモノだから……」
「…………」
「では……」
彼が目を覚ましたその場所は、暗く、息苦しく、妙に暑く、ついでに異臭が充満していた。最後のそれは彼の鼻が慣れきっていた為、彼にとって苦にはならなかったが。
自分が置かれた状況すら分らなかった――そこに居続ける事は危険だというのは感じていたが――彼は、ただそこから逃れる為にもがくしかなかった。
その努力が実り、彼はまず「暗さ」と「息苦しさ」から解放される。そこで漸く周りと自分の状況を知る事が出来た。
彼は山と積まれたゴミの中にいた。その中の一つのビニール袋を内側から突破り、頭を突き出しながら、今度はこうなった経緯について頭を巡らす。
ここ暫く、彼の生活環境――特に食料事情は最悪だった。
同居人が食事を作ろうとしない為、日々の糧に事欠いていた彼に出来た食物摂取手段は、部屋の中に溢れたゴミから何とか食べる事が出来る物を漁る事しかなかった。だが、それもやがて限界に達し、彼は禁断の“ブツ”に手を出した。
それの危険は、彼の本能のレベルにまで刷り込まれていた筈だが、差迫った飢餓はそれをあっさりと振り切った。
随分前に作られ冷蔵庫に放り込まれたままになっていたそれを、彼は口にし――それから先の意識は無い。気が付いた時はここに、こうしていた。
暫くは自分がまだ生きている事を実感し、何者かに感謝していた彼だが、やがて猛烈に腹が立ってきた。彼をこの状況に至らしめたであろう者に対して。
彼は更に身を捩り、そこから抜け出して自由を得ると、天に向って雄叫びを上げた。
「……あ〜〜っ！ まったく、腹が立つわねっ！」
コンフォート１７の近くまで来た時、アスカは腹に溜め込んだ物を吐き出すように吠えた。突然の咆哮に、隣を歩いていたレイは少し目を見開いてアスカを見る。
本部を出てから――いや、シンクロテストが終わって着替えている時から、アスカはずっと不機嫌だった。
憂さ晴らしにゲーセンでクレーンゲームをやり、目当てが取れなかったアスカは筐体にヤクザキックをかましていた。不幸にもそこに居合わせたジャージとメガネが殲滅されたりもしたが、余計機嫌が悪くなったようだった。
途中「百花屋」に寄り、チョコレートムースとフルーツパフェと白玉宇治金時を平らげても、まるで治まる様子はなかった。ちなみにレイはイチゴサンデーに挑戦してみた。
（……かなり嫌いじゃない）
その味を反芻しながら、そんな事を考えてみたり。それはともかく……
「ナニ？」
レイは尋ねてみる。
「なにって、ＮＥＲＶの連中よっ！ 正確には髭司令やリツコ達ね！ あいつら今迄アタシが必死になってるのを、腹の中で笑いながら見てたんだわっ！ 不愉快だったらありゃしないっ！」
それを言いたくとも口に出せない為――ＮＥＲＶ本部、そして第３新東京が監視装置だらけの為――鬱屈していたらしい。
「そう……？」
「そうよっ！ アンタ分かんないのっ！」
「…………」
何か理不尽な物を感じたが、言われて考えてみる。
（司令……笑う……）
かつて碇司令は、自分に――自分だけには笑い掛けてくれていた。だが、カラクリが知れれば何の事は無い。結局それは、自分に向けられた物ではなかったのだ。いや……分かっていた筈だが、認めたくはなかった事。
何故、あの男に拘ったのか。何故、あの男の望みを叶えようと思ったのか。
今なら分かる。あの男は望みを叶えてしまえば、自分を顧みる事は有り得ない。いや、寧ろ邪魔にするだろう。
胸の内にモヤモヤした物が湧き上がる。
（そう……これが不愉快……。私は不愉快なのね……？）
レイは何となくアスカの言う事が分かった気がした。
「……なによ、この匂いは？」
そんな事を言い合っていたアスカは、漂ってきた異臭に顔を顰め鼻をヒクつかせた。
「…………」
一緒にいたレイもそれに倣い、発生源の方に鼻を向ける。
「……裏のゴミ集積所の方ね」
「今日はゴミの日じゃない……」
「マナーの悪い人間なんて、どこにでもいるわよ。……でも、何の匂いかしら？」
ゴミ出し（と言うかハウスキーピング全般）を全てシンジに押し付けている人間が言う台詞ではないが……単なる腐臭とは思えないそれにアスカは首を捻る。気の所為だろうか、目に軽い刺激すら感じる。
出来れば近付きたくは無かったが、ヤバイ物が転がっていたとしたらそれはそれで困る。二人は顔を見合わせると、ゆっくりとそちらに向った。
角を曲って目的の場所に視線が通ると、そこにはパンパンに膨らんだゴミ袋が山と積まれていた。その一部が破れ、中身が散乱しているのがどうやら悪臭の元らしい。
アスカが鼻を摘んでそれを見ていると、袋が引き裂かれる音がし、新たな物体が地面に振り撒かれる。そして、それを行なっているらしい、見え隠れする黒い羽根らしき物。それを見たアスカは、直ぐさま自分達に付いている“護衛”の事を思い浮べ、同時にそれを音声にして吐き出した。
「こらっ、バカガラス！ 何やってんのよ！！」
スルトの名誉の為に言っておけば、彼はゴミを漁ったりましてやそれを散らかしたりした事は無い。アスカに濡衣を着せられた相手は、幸いにもマンションの屋上にいてそれを耳にする事は無かったが。
そして、アスカの考えが大間違いであった事は、彼女の大声に反応したのか、犯人がその特徴的な頭部を見せた事で明らかになった。
「…………」
「……ペンギン……」
意外過ぎるモノに固まるアスカと、そのモノの正体をポツリと呟くレイ。
十五年前、人間の愚行の御蔭で、恐らく最も迷惑を蒙った脊椎動物。その眷属である事は直ぐに判った。その種類までは不明だったが。
相手も首を傾げるように二人を見詰め、暫し無言のまま時が流れる。
と、何を思ったかレイがそちらに歩み寄っていく。一方、それを認めたペンギンは、警戒心も露わに臨戦体制を取る。
羽根を広げ冠羽を逆立て威嚇音を発する相手に、近付いたレイは手を差し出した。
「ちょ……！」
呆気に取られていたアスカが、警告するより早くペンギンがレイの指に噛付く。一瞬顔を顰めたものの、そのままペンギンの嘴に手を委ねるレイ。
三十秒、一分、とそのままでいる一人と一羽。更に三十秒ほど経って、漸くアスカが事態を把握した。
「……って、何やってんのよ、アンタ！」
「グェッ！？」
アスカの鞄による横殴りの一撃を受けたペンギンは、吹飛んでゴミの山に激突し、そのまま動かなくなる。それを確認して一息吐いたアスカは臭気に噎せた後、レイに向き直る。
「ったく、何やってんのよ……」
「……イタイ」
「……そりゃ痛いでしょうよ」
噛まれた指を見ながらポツリと漏らしたレイに、アスカは溜息を吐こうとして止める。
「何で、大人しく噛まれてんのよ……？」
「あのコは……怯えていただけだから……」
「……は？」
アレのどこが？ と、ハテナ顔で首を傾げるアスカ。だがそれよりも……と思い直す。
「とにかくここから離れるわよ。……でも、コイツはどうしよう？」
言いながらアスカはゴミ袋に交じって目を回しているペンギンに目を向け、その処遇に考えを巡らした。
シンジ宅のダイニングで、文字通り一心不乱に目の前のモノを貪るペンギン。
その胃袋にアジのひらきが、ツナ缶が、煮干が詰め込まれていくのを、アスカとレイは呆れ半分感心半分で眺めていた。
そこに、玄関の扉が開く音と共に、疲れた声が入ってくる。
「……ただいま。……終わったよ」
「……お疲れ様」
「アンタ、臭いわよ！ 直ぐシャワー浴びなさい！」
声に相応しい表情のシンジが入ってくると、二つの声が出迎える。
「うん……」
些か冷たいアスカの物言いだが、シンジは何か言い返す気力も無く風呂場に消えた。
シンジが戻って来たのは、アスカ達が気絶したペンギンを（その臭いを我慢しながら）家に連れて帰り洗濯機に放り込んで暫くしてからだった。マンション裏手のゴミの山の事を知ったシンジは、それを放っておく訳にもいかず、直ぐに市内のゴミ処理業者を調べ回収を頼んだ。そのゴミは本来なら一般廃棄物であるのだろうが、あまりに異常な臭いに業者も産業廃棄物扱いで引き取っていき、シンジはそんな事をする義務など無いその料金を払い、更にトラックへの積み込みを今迄手伝っていたのだった。
「クカカカカッ！！」
シンジの後姿を見送っていたアスカは、ペンギンの鳴き声に目を戻す。トコトコと近付いて来たスルトを、嘴を鳴らしながら威嚇するペンギンに溜息を吐いた。
「誰も取りゃしないから、ゆっくり食べなさい。バカガラスもちょっかい出すんじゃないわよ！」
「さて……」
生乾きの髪のままリビングに来たシンジは、レイが用意してくれたジュースに手を付けながら、時ならぬ来客に話し掛けた。
満ち足りた表情でジュースを飲むペンギンを観察し、胸のプレートに「ＰＥＮ２」とあるのに目を留める。
「ペンペン……で良いのかな？」
「クワッ！」
片羽根を上げてそれを肯定するペンギン――ペンペン。その先に爪があるのを見て眉を顰める。果たしてこういうモノを付けたペンギンがいただろうか？ そもそもホントにペンギン？ そんな事を考えると同時に、シンジは相手がかなり頭が良い事に気付いた。
「まず、君がどこから来たのか聞きたいんだけど」
「クェクェ！」
生真面目に質問するシンジに、ペンペンはある方向を指差す。一斉にそちらに顔を向ける人間三人。
「隣……という事かな？」
「ミサトんち……って事？」
シンジとアスカの言葉に頷くペンペン。
「そう言えば、ペンギンを飼ってるって葛城さんが言ってたっけ。……で、それがどうしてゴミ捨て場に？」
言われてペンペンは盛んに羽根をバタつかせる。それがどうやらゼスチャーらしいと察したシンジは、
「上？ で良いの？ ――寝る？ ……死ぬ？ ――飢え死にって事？ ――僕？ アスカ？ 男、女？ ――彼？ ええと、食う？ ――……ひょっとしてカレーを食う？」
なんとかそれを解読しようと試みた。
約五分後、肩で息をするペンペンに、シンジは分かった事（一部、意味不明の事はあったが）を纏めてみる。
「つまり君は、葛城さんに餌を貰えなくて餓死しかけて、置いてあったカレーに口を付けた後は何も分からない。気が付いたらゴミ袋に入っていて、出たらゴミ捨て場だった……と。それで良いのかな？」
「クェ〜〜……」
項垂れるように頷くペンペンに、シンジは自分の推理を付け足してみた。
「……どうやら、あのゴミの山は葛城さんの仕業らしいね。で、ペンペンが袋に自分から入る訳は無いし（袋の口を縛るなんて出来ないし）……どうやら葛城さんが倒れているペンペンに気が付かずゴミと一緒に袋に放り込んで、ゴミ出ししちゃった……というところかな？」
そう言いながら、そういう事態に到った原因であろう葛城邸の惨状を想像する。あの膨大なゴミが、一体どういう状態で家の中にあったのだろうか。
「サイッテーね……ミサト……」
「…………」
シンジの言葉にアスカも同じ結論に達したようで顔を顰めるが、レイの方は良く分かっていないらしく首を傾げる。
「でもまあ……帰る所があるなら……。葛城さんが帰宅したら、連れて行って……」
「クァーーッ！！ クェックェッ！！」
アスカの意見に内心同意したシンジだったが、他人の家の事に口出しすべきでは無い、と嘆息しつつそう言い掛けた。だが、当の本人が拒絶の意思を示す。
「……なに？ 帰りたくないの？」
盛んに頭を上下に振るペンペンを見て、シンジは唸る。
「と、言ってもなぁ……」
「良いじゃない、ペンギンの一羽くらい」
難しい顔をするシンジに、軽く言うアスカ。
「……このコもＮＥＲＶの犠牲者。助けてあげて、碇君」
少しズレた理解をしたらしいレイが、ペンペンの頭を撫でながら頼む。暫く考え込んでいたシンジは、やがて苦笑して顔を上げた。
「ま、いいか。葛城さんが何か言ってくるまでは……」
「どうせ、居なくなってる事にも気付かないわよ、バカミサトは」
「ははは……」
容赦無い、しかし否定出来ないアスカの評価に、弁護してやる事も出来ないシンジは力無く笑うしかなかった。
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