ALL'S RIGHT WITH THE WORLD
第九話 C-Part
地底湖の辺にレイとアスカは佇んでいた。
シンジに先に行ってそこで待っているように言われたのだが、二人の間に会話は無い。それどころか妙な緊張感が漂っている。もっとも、その発生源はアスカが大半だったが。
その緊張が最高潮に達しようか、という時、のんびりとした声が掛かる。
「お待たせ」
「遅いわよ！ ……何それ」
喚いたアスカは、シンジが片手に下げたビニール袋に目を留めた。
「ああ、ちょっと購買部で買い物。水と紙コップ。……多分、必要になると思ってね」
言ってシンジはペットボトルと紙コップが入った袋を掲げてみせる。アスカは訳が分からないといった風情で、何か言い掛ける。結局、何も言わなかったが。
「それと、二人とも携帯と荷物をここに置いておいてくれる？」
「……何でよ？」
「盗聴器と発信機が付いてるから、ちょっとね……」
それを聞いてアスカは顔を顰めながら、レイは表情を変えず携帯を取り出してバッグに入れてその場に置く。
「じゃあ、行こうか」
そう言って自分のバッグも抛り、アスカとレイの前を歩き出すシンジ。三人がその場を離れたその後で、地に転がった荷物が音も無く消えた。
廃棄された補修坑から地下に入り、長いエレベーターを降りて行く。
更に通路を歩く三人の内、シンジとレイは平然としていたが、アスカは流石に不安気な様子を見せる。
「随分下りたみたいだけど……」
沈黙に耐えられなくなったのか、誰にとも無く言うアスカ。
「地下、何千メートルだったかな？ ……ちなみにここはターミナルドグマと呼ばれている」
「…………」
その説明に頭上にある膨大な土砂の存在を想像したのか、アスカは顔を歪め天井を見上げる。その後は無言のまま足を進めた。
やがて「ＫＥＥＰ ＯＵＴ」とある扉の前に辿り着く。
「“L.C.L PLANT”……。なによ、ＬＣＬってこんな所で作ってんの？」
表示されている文字を読み、アスカは眉根を寄せ首を捻る。
「作っている……と言うか、なんと言うか……」
シンジは苦笑する。が、それを収めると顔を引き締め呟く。
「この扉をくぐる者、全ての希望を捨てよ……」
「？ ……何の事よ？」
呟きを耳にしたアスカが訊く。
「この扉は何を考えているのか、“ヘブンズドア”って呼ばれているのさ。ホントは地獄門と言った方が相応しいと思うんだけど」
暗に「引き返すなら今の内だ」とシンジが忠告し、アスカは唾を飲み込んだ。
「は、はんっ！ 地獄だろうが何だろうが行ってやろうじゃないのっ！」
アスカは自分の気を奮い立たせるように叫び、胸を張る。
「……分かった」
シンジは一度確認するようにレイに目を遣り、拒否の色が無いのを知ると自分のＩＤカードを取り出す。
（ひょっとして、コキュートスに封じられた魔王が煉獄への門となっていたように、この先も煉獄……そして天国に続いている、という意味なのかな……）
そんな事を思い浮べながら、シンジはスリットにカードを通した。
扉が開いた時、アスカは噴出してきた濃い匂いに顔を顰める。しかし、シンジとレイが中に進んで行くのを見ると慌てて後を追い、朱い空間に足を踏み入れた。
「な、なに……？」
直ぐ目に付いたのは、正面の十字架に磔にされた白い巨人。
周りを見回すと、一面に広がるＬＣＬの湖。その所々には白い塩の柱が突き出していた。
アスカが想像していたような、何らかの機械はどこにも見当たらない。
もう一度、白い巨人に目を戻す。
「何なのよ……あれは？」
「外向けには第一使徒アダム……という事になってるけど……」
シンジはアスカの呟きに、静かに応える。
「本当は、第二使徒リリス。そして、ここジオフロントは“リリスの卵”。別名“黒き月”と呼ばれる、彼女の御座所……」
「……ここはアイツを閉じ込めておく場所ってワケ？ じゃあ、このＬＣＬは？ どこで作ってるのよ？」
アスカの質問に、シンジは無言で腕を上げリリスの下方を指差した。
その指先を追ったアスカは、直ぐにソレに気が付く。
その身体のどこが傷付いているのだろう、巨人のどこかから流れ出た液体は十字架の表面を伝い、川となって下の湖面に落ちていく。
「……まさか……」
呻き蒼褪めていくアスカ。
出来れば否定してもらいたかったのだろう。だが、シンジは無常にも告げる。
「そう。ＬＣＬは……使徒の生血だよ……」
目で見た事を理解するのを拒絶していたアスカだが、更に耳からも事実が浸透し神経のバランスが崩れた。
膝を付き口に手を当て、込み上げるモノを抑える。
その様子を見たシンジは、ここまで持ってきた袋から中身を取り出し、袋の方をアスカに渡す。それを引っ手繰ったアスカは袋の口を開け、中に胃の内容物を吐き出し始めた。
シンジは溜息を吐きつつも、その背中を擦ってやる。
（やっぱり、こうなったか……）
そう思ったシンジだが、予想が当たった事は少しも嬉しくない。
アスカの嘔吐がどうにか治まったのを見ると、今度はコップに水を入れて手渡してやった。
口を濯ぎ終わっても、アスカは膝を付き俯いたまま動かない。無論、口を開く事も無い。
しかし、シンジが言葉を掛けようとした時、アスカが声を絞り出した。
「……なんなのよ、これは……」
「えっ？」
可聴範囲ギリギリだったそれに、シンジが訊き返す。
「なんなのよっ、これはぁっ！！？」
アスカが吠えた。
少し驚いたシンジだったが、直ぐにいつもの調子になる。
「……言ったろ、生易しくないって」
「良いから言えっつってんのよっ！」
シンジは噛付くように言うアスカを抑える。
「その前に最終確認。……今なら、まだ見なかった事に出来るよ？」
そう諭され、アスカは少しだけ落着くが、それでも興奮は冷めない。
「こんな物を見といて、今更知らん顔なんか出来るわけ無いでしょうが！ さっさと言いなさいっ！」
ここに到っても逡巡していたシンジだが、それを聞いて腹を括った。
「じゃあ話そう。ＮＥＲＶが抱え込んでいる、おぞましい秘密を……」
自然低くなったシンジの言葉に、アスカは息を呑む。
「事の起こりは……そうだね、ＳＥＥＬＥという組織が“裏死海文書”と呼ばれるものを手に入れた時から始まった、と言えるのかな……」
広大な空間にシンジの声が吸い込まれていく。
「……そしていずれ来る使徒に対抗する為、人間は使徒のコピーであるＥＶＡを造り出した。でも、それには魂が無かった――いや、本当はあるんだけど、あまりに未熟なそれに造った人間達は気が付かなかった。……それが――そう、それが誤りだった」
そこで一息吐き、遥か上の天井を見詰めるシンジ。
「二〇〇四年、初号機と碇ユイの接触実験。結果――は失敗。初号機に取り込まれ、サルベージを試みるもそれも失敗に終わる。そして二〇〇五年、弐号機と惣流・キョウコ・ツェッペリンの接触実験……失敗」
半ば呆然と聞いていたアスカの身体が震える。
「サルベージには成功したものの彼女は精神汚染を受け、回復せぬまま……同年、縊死」
アスカの脳裏に幼い日の光景が蘇る。
人形を娘だと思い込む母。
自分を見てくれない母。
ＥＶＡのパイロットになれば自分を見てくれると思った。
そしてＥＶＡのパイロットに選ばれ……
それを報せに行った時……
「いやあぁっ！！」
両手で耳を塞ぎ、座り込む。
シンジはその手を掴み、強引に引き剥がした。
「まだ続きがある！ 君が望んだ事だ、最後まで聞く義務がある。惣流・アスカ・ラングレー！」
「やめてっ！ そんな事を思い出させないでっ！ アタシを壊さないでっ！」
錯乱したように暴れるアスカに、シンジは一転静かな声で告げる。
「惣流・キョウコ・ツェッペリン――君のお母さんが、まだ生きているとしてもか？」
その言葉がアスカに浸透するまで時間が掛かった。
やがてアスカの動きが止まり、恐る々々顔を上げる。シンジも掴んだ手を離した。
「惣流・キョウコ・ツェッペリンは精神汚染を受けたんじゃない。ＥＶＡに取り込まれ……心をそこに残したまま、肉体だけがサルベージされたんだ」
「……えっ？」
「ＥＶＡとのシンクロって何だと思う……？」
「…………」
無言でシンジの顔を見詰めるアスカ。
「厳密に言えば、それはＥＶＡとシンクロしているんじゃない。ＥＶＡに取り込まれた人間とシンクロしているんだ。だからこそ僕は初号機のパイロットとして呼び出され、君は弐号機のパイロットに選ばれた」
「…………」
「ＥＶＡのパイロットとして選ばれるのは、才能或いは偶然なんかじゃない。単なる必然だ」
「……あそこにママがいるの……？ 弐号機に……？」
漸く理解した事を言葉にする。
「ああ……気付かなかっただけで、ずっと惣流さんの傍にいた。今度、確かめてみると良い」
「……ママ……」
知らず零れた涙が、床に点々と落ちる。
シンジはアスカの頭を撫でてやりながら、内心で安堵の息を吐いていた。取敢えず、この話がアスカにとって第一の山場だった。まだ終わった訳ではないが、少なくともアスカが“壊れて”しまう可能性はかなり減った筈――シンジはそう判断していた。
暫くしてどうにか落着き立ち上がったアスカは、目の前に差し出されたハンカチに驚く。その手の主を見ると、レイが無言で自分を見ていた。
「あ、ありがと……」
戸惑いながらも素直に礼を言い、それを受取ると顔を拭う。アスカがハンカチを返したのを見て、シンジは話の続きに入ろうとする。
「さて、シンクロの秘密はこんなもの。でも、話はまだ終わってない」
それを聞いて、アスカは表情を改めた。
「そのＳＥＥＬＥだけど、アダムを手に入れ損なった彼らは、また新しい計画を立てた。それが“人類補完計画”」
「人類補完計画？」
聞き慣れない単語に戸惑い、それを繰返す。
「全ての使徒を倒した後、自らの手でサードインパクトを起こし、出来損ないの群体として行き詰まった人類を完全な単体生物へと進化させる――それが人類補完計画」
「なによ、それっ！？」
「その計画の実行機関として作られたのが、ＧＥＨＩＲＮから改組されたＮＥＲＶ。そして、計画の為の予備としてチルドレンは仕組まれた」
「予備……？」
「そう、順調にいけば、その計画にはリリスそのものが使われる予定だけど――」
シンジは磔の巨人を見上げる。
「――それが出来なかった場合には、ＥＶＡと依代としてチルドレンが使われる。その場合、補完は依代の意志――人を求める弱い心が鍵になる。チルドレンはその為に巧妙な心理操作をされてきた」
「……そんなふざけた事の為に、アタシ達を利用しようてぇのっ！？」
「本人達は大真面目だと思うけど……そうだよ。人類を滅ぼすも同然の馬鹿げた計画だと思うけどね。で、“チルドレン”というのは、選ばれたエリートでも正義の戦士でも何でもない――馬鹿げた計画の為の、ただの生贄って事さ」
自分の信じてきた事を根底から覆され怒りに震えるアスカに、シンジは淡々と事実を述べていく。その態度にアスカは矛先をシンジに向ける。
「アンタ、それを黙って見てるワケっ！？」
「まさか。そんな事をさせない為に色々動いてる」
向けられる怒りの理不尽さに苦笑しながらも、シンジはアスカを宥め、次いで表情を改めた。
「それで……二人に頼みがある」
アスカとレイの顔を交互に見ながら言う。その真剣な様子にアスカは勿論、レイも僅かに驚く。
「僕は補完計画を阻止するつもりでいる。……別に正義の為なんて言うつもりは無い。連中のやる事が気に喰わないだけだ。……けど、出来る事なら二人に手を貸して欲しい。……頼む」
頭を下げたシンジを、二人は其々の表情で見詰めた。やがて、まずアスカが動き出す。
「……はんっ、しょうがないわねぇ。ま、アンタ一人に任せてなんか置けないしぃ、ここは天才美少女アスカ様が手を貸してあげますか！」
偉そうに胸を張って言うアスカに苦笑したシンジの袖を、傍に寄ったレイが引張った。
「…………」
無言のその瞳を見て、シンジは理解する。
「……碇司令の意志には反するよ？」
「構わない……」
小さな声で、だがキッパリと言ったレイにシンジは頷き、もう一度頭を下げる。
「ありがとう、綾波。惣流さんも」
シンジの笑顔に思わず顔を赤らめるアスカだが、それを誤魔化すように声を大きくして言う。
「ま、まあ、死ぬまでアタシに感謝しなさい！ それと……アタシの事は“アスカ”と呼んで良いわよ！」
「え？ あ、うん……分かった」
「……でもさ。……アンタなんで、そんな事色々知ってるワケ？」
不意に肝心の事を思い当たったアスカが尋ね、言われたシンジは頭を掻く。
「ん〜〜……。そうだね、なにから話したら良いか。まあ、実際に見せるのが一番手っ取り早いか……」
シンジは呟くと二三歩後退り、二人から距離を取った。
「……あ〜〜、アスカ、ちょっと僕を殴ってみてくれる？」
「へっ！？」
言われてもアスカは動かない。いきなりであったのもあるが、これまで何度となく殴り掛かっても尽く相手にされなかったのだから無理も無い。
「大丈夫。今度は“避けたり”しないから」
何を躊躇っているのか察し、シンジは笑いながら両手をズボンのポケットに突っ込む。それを訝しがりながら、アスカは両手を構え、片足を一歩引く。
「……シッ！」
シンジの顔面に向けて拳を走らせる。ほんの少し腰が引け、拳のスピードが鈍ったのは御愛敬。だが、アスカがシンジに触れる事は無かった。
赤い光で作られた八角形。シンジの寸前に現れたそれが、アスカの拳を遮る。
「きゃっ！」
弾かれ、後に蹌踉いて尻餅を付くアスカ。
「……ＡＴフィールド」
自分の足元に転がったアスカに気が付かないかのように、レイはその光景に呆然と呟く。アスカも頭を振ると、座り込んだまま自分を弾いたモノを見詰める。
それはまだそこにあった。
「ア、アンタ……使徒なのっ！？」
アスカの声が上擦る。
「……ま、人類――ホモ・サピエンスも第十八使徒リリンなんだけど……それは置いとこう」
目の前の光を消す。
「ＡＴフィールドっていうのは、使徒の専売特許じゃない。人――いや、生物の誰もが持つ“心の壁”なのさ。ただし、人類は使徒と違い、それを操る方法を持っていない」
「じゃ、じゃあ……何でアンタは使えるのよ！？」
「魔術さ……」
「ま、まじゅつぅ！？」
意外過ぎる言葉にアスカは素っ頓狂な声を上げ、レイは口の中でそれを反芻する。
「別に、仙術でも超能力でもフォースでも良い。要するに“意志を具現化する術”って事。だから、使い方は色々ある」
そう言うとシンジは、湖面に向けて衝撃波を打ち出し雷撃を放ち、ゲロ袋を宙に浮かばせ炭にしてみせる。それを見たアスカは馬鹿みたいに口を開け、レイも大きく目を見開いた。
「まあ、“壁”なんてごく基本的な使い方だね。あれは単なる“拒絶の意思”の現れだから。といっても、僕だって大した事が出来る訳じゃないけどね」
簡単に言ってみせるシンジだが、二人はそれに応えられない。アスカなどは声も無く、ただ口を開閉する。その様子にシンジは笑って促した。
「じゃあ、次に行こうか。これの事は道々話すから」
言葉通り、シンジは二人に自分の事を淡々と話していった。
“師匠”に出会ったこと。相棒のファウスト。初号機――スルトとの関係。ＭＡＧＩを落として情報を手に入れた事……
それを二人は驚きながらも、口を挟む事無く聞いていた。
「人工進化研究所 ３号分室」に着くまでそれは続いた。
そこに入る前にシンジはレイを見詰める。その意志を確かめる為に。
レイが頷くとシンジは扉を開けた。
中はコンクリートが剥き出しの荒れ果てた部屋。一応、人が棲むような体裁は取られていたが。
そして、幾つかの機械と、放置されたビーカー、錠剤、カプセル。
「……なんなの、ここ？」
「綾波が生まれ……育った場所。去年までここで暮らしていた……」
アスカの疑問にそう応えたシンジ。だが、果たしてそれを“暮らす”と言って良いのだろうか？ シンジは疑問に思わないでもなかったが、そう説明するしかない。
一度レイの方を見たアスカは、改めて部屋をグルリと眺める。
「……こんな所に……？」
「地上に出されてからも、似たような所に放り込まれてたけどね」
「…………」
再びレイを見る。そこにあったのはいつもと変わらぬ無表情。何か言い掛けたアスカだったが、シンジが進む事を促した。
“ＥＶＡの墓場”を抜け、更に先へ。
そして……最後の部屋へ。
シンジは、流石に身体を強張らせたレイの頭を撫でる。その横のアスカも、不安気に視線を巡らせた。
「……明りを点けるよ」
レイの頭から手を離すと、シンジはそう告げる。
光と共に巨大な水槽の存在が明らかになる。その中に漂う者達も。
ＬＣＬの中を踊るように揺蕩う。
赤い瞳が闖入者達を見詰める。
幾つもの同じ虚ろな笑顔。
彼女達の顔は……そこにいる三人共が見知っていた。
息を止めそれを見ていたアスカは、それを横の同じ顔に移す。
「……アスカの想像の通りだよ。ただ、彼女達には魂が無い」
アスカを見ないまま、シンジが静かに言う。
「……何で……？」
そう口にしたものの、アスカも自分が何を訊きたいのか、何を訊いているのかも分からない。シンジも暫く口篭もった。
「彼女達が作られたのは……彼女達はダミーシステムの材料」
「ダミー……システム……？」
「彼女達から抽出・移植した思考パターンを、ＥＶＡにパイロットと誤認させ、パイロット無しでＥＶＡを動かす為のもの。もう一つは……」
一度、息を整えるシンジ。
「綾波の予備。綾波が死んだ場合、その記憶のバックアップが彼女達の一人に移され、新しい綾波となる……」
シンジが口を閉ざすと、誰も言葉を発さないまま重苦しい時だけが流れる。
魂を持つ三人は、無数の魂無き者達に倣うかのように沈黙を続けた。
「……彼女達を無に還す」
「…………」
「な、何でっ！？」
レイではなくアスカが、シンジのその突然な言葉に慌てる。
「綾波の呪縛であるからと言うのもあるし……もうすぐ、今ここにいる綾波は殺され、新しく換えられる」
身を震わせシンジを見るレイ。
「赤木さんが父さん――碇司令と連絡してた。間違い無い」
「どうして……？」
ＮＥＲＶが真っ当な組織で無いと分かったアスカであっても、人間を部品を取り替えるように簡単に始末するという事に、頭が付いていかない。
「綾波が自分の意志や感情を持ち始めて、道具としてそぐわなくなってきたから……。どうも碇司令はＳＥＥＬＥとはまた別の計画を持っていて、綾波はその鍵らしいんだけど……」
「別の計画って何よ？」
「それが――」
シンジは途方に暮れたような情無いような何とも言えぬ顔になって、魂が抜けるような深い溜息を吐いた。そんな顔を初めて見たレイとアスカも顔を見合わせる。
「――推測なんだけど……どうも、初号機に取り込まれた母さんに逢うのが目的なんじゃないか……と思うんだけど……」
「はぁ？」
これまでと違い自信無さげに言うシンジに、その意味が理解出来ない――無理も無いが――アスカ。
「……綾波は司令から計画を聞いてないの？」
「……いいえ」
レイの返事に「そう……」と答えて、シンジは自分の考えを述べる。
「言ったろ、補完計画は依代の意志が鍵になるって。でも、司令自身は依代になれないから綾波を依代にして――言い忘れたけど、綾波の遺伝情報は僕の母さんがベースになっている――それと合わせて、綾波が命令に絶対に従うようにしておけば……それを介在にする事で補完が成された時に母さんに逢える。とまあ、そう言う筋書きを描いてるんじゃないか、と……」
「……そんな事、出来るの？」
「さあ……？」
「さあ、ってアンタ！」
首を捻るシンジに、アスカは声を荒げる。
「だって、こんな阿呆らしくて計算のしようも無い事なんか、どう評価したらいいのさ。この推測だって、司令の初号機と綾波に対する異常な執着心と、綾波への露骨なマインドコントロールもこう考えれば説明が付く、ってだけで……」
シンジは肩を竦めて言い、アスカもそれ以上追求する気を無くした。
「……アンタの親ってどーゆー奴なのよ。その為に世界まで滅ぼそうっていうワケ？」
「親じゃないけど……面目次第も無い。まったく『八百屋お七』でもあるまいに、って思うんだけど……」
アスカは呆れ果てたと言わんばかりに吐息し、シンジは頭を下げながら苦虫を噛み潰した。
「……それで、だ――」
気持ちを切り換え、レイに顔を向ける。
「言った通り、彼女達を無に還すつもりでここに来た。でも、綾波。――綾波がそれを望まないのなら……別の手を考えるよ」
「どうする？」と問い掛けられたレイは暫く俯いていた。だが、顔を上げると決然とした瞳を向けて頷く。
「……良いんだね？」
「ええ」
返事にも迷いは無い。
「じゃあ……二人とも少し下がっていて」
「……どうすんの？」
シンジの指示に従いながらも、アスカは不安気に尋ねる。
「アンチＡＴフィールドで彼女達をＬＣＬに還す」
短く説明したシンジは、水槽に掌を触れ目を閉じる。その意味が分らなくともアスカもレイも訊く事が出来ず、部屋の中は水槽の中で時折弾ける泡の音だけが妙に大きく聞こえた。
唐突に水槽の中の身体がぶれるように震え――次の瞬間、彼女達はＬＣＬと化す。
水槽の中でのそれは、まるで消え失せたとしか思えない呆気無いものだった。
誰もいなくなった水槽とシンジの背中を見詰める、アスカとレイ。
暫くその場で佇んでいたシンジは、振り返ると何かを片掌に乗せたような仕草で二人の所に戻る。
「……綾波」
そう言ってその掌の中のものを見せる。そこには蛍火よりなお淡く明滅する光があった。レイは無言でシンジに問い掛ける。
「……彼女達の魂の欠片。……全部掻き集めても、これだけにしかならなかった」
「……！」
シンジはその手を差し出し、レイもそれを受けるように両手を出す。シンジは“光”をそこに乗せ、レイの掌に移ったそれはやがて手の中に溶け込むように消えていった。
「ぁっ……」
そこにあったものを抱くように、両掌を自分の胸に押し当てるレイ。
双眸から流れ落ちる涙。
レイはその正体も分からず、自分の抱く感情――哀しいのか嬉しいのか――も分からず、涙を流し続けた。
「……ワタシ、泣いてるの？ ……ナゼ？」
呟くレイをシンジは無言で抱き寄せ、その顔を自分の肩口に押し当てながら髪を梳くように頭を撫でてやる。
「綾波……綾波は生きていかなきゃならない……彼女達の分まで……」
「ア、アリガ……ト……碇君……アリカト……」
シンジに縋って泣くレイを、アスカは内心に幽かな痛みがあるのを感じながら、困ったような呆れたような……そして少しだけ優しい瞳で見守っていた。
「……碇君、これは何？」
「それは、ヒラメだね」
「…………」
シンジ宅には戻ってきたシンジとレイ、そしてアスカがやってきていた。
その際、レイが同居している事を知ったアスカが、それに関する些かズレた意見を述べるなど少々混乱もあった。だが、レイの今迄の生活環境やここが第３新東京で最も安全な場所である事を説明して、漸く落着かせる事が出来た。
三人は遅い昼食の寿司に舌鼓を打っていたが、旺盛な食欲を見せるシンジとマイペースなレイと違い、胃の中を空にした筈のアスカは今一つ箸の進みが遅い。
「……アスカ、お寿司嫌いだった？ せっかく特上にしたのに」
「……あんなの見た後で、お腹に入るわけ無いでしょうが」
尋ねるシンジを、アスカはジト目で睨む。
「ったく、アンタらはよく平気な顔で食べられるわね？」
「あのくらいでどうにかなるような柔な胃じゃ、この先やっていけないよ。それに、僕も流石に今日は燃料切れ寸前だしね」
言いつつも、シンジは次々と魚介類を乗せた酢飯の塊を口に運ぶ。ドグマでやって見せたアンチＡＴフィールドの形成は“補完計画”検証の為の未完成な術であったし、散ろうとした魂を集めるなどという術は知らない為、力技になっていた。おかげで見た目は平気そうな顔をしていても、実際は相当消耗していたシンジだった。
アスカはその様子をどことなく化物を見るような目で見ると、湯飲みに口を付けながら色取々のネタに視線を移す。
「でも、特上寿司なんて奢ったわねぇ。しかも五人前」
「お金なら心配ないよ。僕はＮＥＲＶからたんまり報酬をふんだくってるから」
「たんまり……って、どれくらい？」
「月、一億。出撃一回に十億円」
あっさりとしたシンジの答えを、アスカは暫く反芻する。
「……って、何よその十億ってのはっ！？」
既にゲンドウのシンジ――初号機に対する異常な執着の理由を聞いていたアスカだが、それでもこれには声を大きくする。
「僕は交渉のつもりで吹っかけたんだけどね……あっさり通ちゃったんだよ、これが」
シンジはこの馬鹿げた報酬を引っ込める事で、少なくとも「命令拒否権」と「私生活不干渉」――それとゲンドウの「親権放棄」――を手にする、という事を考えていたのだが。
「でも、裏が分れば理由も分かる……。連中、補完計画で全てチャラにしてしまうつもりだから。おまけに自分の懐が痛むわけでもないし」
「……はん、なるほどね」
アスカもそれを聞いて直ぐに理解する。
「要するにあれね。計画倒産を企んでる会社が、払うつもりの無い手形を乱発してるようなもんね」
「そういう事。いくらでも気前良くなろう、ってもんでしょ」
「……やっぱ、ふざけてるわね」
「まぁね。ただ僕も、貰ったのは良いけどあまり使わないんだけど」
いっその事どこかに寄付しようかとも思ったが、補完計画の事を知ってからはそうもいかなくなっている。だからと言って無闇に使えばＮＥＲＶに怪しまれる。これを担保に資金を調達する事も考えているが、今のところシンジはこの金の扱いに手を焼いていた。
「……奢りなさい」
「はいっ？」
突然言い出したアスカに、シンジは少し裏返った返事をした。
「だ・か・ら、アンタが使わないお金を、アタシが使ってあげよう、って言うの！」
「何が『だから』なのか良く分からないけど……何を買うの？」
「そ〜ね〜……。まずは服かしら。あと、アクセサリーとか。……レイ、アンタも欲しいでしょ？」
「……この前の休日に、服を買ってもらったわ」
レイは話を振られて、小首を傾げてそれに答えた。
「どうせ、コイツじゃ女の子のお洒落なんか分かんないわよ。アタシが見立ててあげるから任せておきなさい！」
アスカに指を突き付け断言されたシンジだが、ほぼその通りなので否定しない。ちなみにレイの服を買った時は、店員に全て任せてしまっていた。
「…………」
「ま、お手柔らかにね」
言われた当のレイはやはり理解出来ないらしく、少し困ったように首を捻る。シンジはその様子と、対照的にはしゃぐアスカを笑って眺めながら、
（これなら二人とも大丈夫かな……）
今日の事で受けたショックが多少なりとも和らいでいる事に、内心で安堵の溜息を吐いていた。
夜半になって、レイとアスカ――取敢えずは泊まる事になった――が寝静まった後、シンジはベランダに出て手摺に乗ったスルトと風に当たっていた。
あれから、シンジが考えているサードインパクト阻止をアスカとレイに説明しておいた。
ＳＥＥＬＥとＮＥＲＶを直ぐにも叩けない事や、こちらの手の内を出来るだけ見せないようにする事については、アスカが多少不満を見せた。だが、サードインパクトを防いだ替わりに、使徒との戦いで地上が壊滅したり、ＳＥＥＬＥを潰して混乱の挙句に戦争になっては意味が無い。それを聞けば理解出来ないアスカではなく、渋々ながらも納得した。
ぼんやりとそんな事を思い出しているその後ろから、ファウストの音波によらぬ声が掛けられる。
《シンジ、セントラルドグマへの爆薬設置を終えました》
《御苦労様。……いつも悪いね、面倒を押し付けて》
《いえ……。しかし、どうかしましたか？》
労うシンジの声の調子が、いつもと僅かに違う事に気付き尋ねる。
《ちょっと……ね。肝心要の事を忘れてた》
苦笑して頭を掻くシンジ。
《ファウストとスルトの意志を訊くのをね。成り行きで今日までやってきたけど……人間が馬鹿をやるのに二人が付き合う必要は無い》
真剣な顔でそう言うシンジに、ファウストも鹿爪らしく――そしてスルトも――応える。
《今更ですね。私は最後までシンジに付き合わせてもらいます》
「カゥ！」
二人の応えにシンジは一度目を瞑り、振向いてそれを開くと微笑んだ。
「ありがとう……。じゃあ、改めてよろしく」
その後、ジオフロントでは“ちょっとした騒ぎ”が起こったが――この家の住人達はそんな事に関り無く、其々の時を過ごしたのだった。
Top/Next
『ALL'S RIGHT WITH THE WORLD』第九話を最後までお読み下さった皆様へ
第九話には少し悪戯がしてあります。A-Partです。
判った人は笑って下さい。
ですが、くれぐれも怒らないで下さい。あくまで冗談ですから。（笑）