少年は逃げ出していた。
父から。
母の墓の前から。
逃げ出し。
走って。
力尽きて躓き。
痛みに蹲る少年の背に影が差した。
「……どうした、少年？」
ALL'S RIGHT WITH THE WORLD
第零話
少年が痛みの所為ともつかぬ涙を浮かべて顔を上げると、男が一人こちらを覗き込んでいた。
良く整っているが何人ともつかぬ顔立ち――言ってみれば無国籍とでも表現すればいいのか――に穏やかな表情を浮かべたその（見た目は若い）男に、少年は何も応えなかった。
「男がちょっと怪我した位で泣くんじゃない。と、捻挫もしているのか。
……これは結構酷いな」
男はシンジの怪我を診ると、「ま、いいか」と口の中で呟きシンジに片手を翳す。
シンジは身体が温かさに包まれ、同時に痛みが引いていくのを感じた。
「さて、もう良いだろう。立ってみな」
言われたシンジは立ち上がると、身体に痛みが無い事を――出血の痕は残っていたが――確認して驚いた。
「な、何をしたの……？」
「大した事じゃない。お前自身の治癒力を加速してやっただけだ。……それに必要な生体エネルギーを送りもしたがな」
恐る々々尋ねるシンジに、男は事も無げに答える。
「……お、おじさんはなんなの？」
「私か？ そうだな……まあ、魔法使い……といったところかな」
“おじさん”呼ばわりされた男は、それに特に気分を害した様子も無くシンジに答えた。
「魔法使い……」
シンジは呆然と呟く。
「……さっきの様子だと、何か嫌な事があったみたいだな。こうして遭ったのも何かの縁だ。良ければ話してみないか？」
「う、うん……」
笑って問い掛ける男に、シンジは戸惑いながらも警戒心を消しポツリポツリと話し始めた。
「……で、ここまで逃げてきた訳だ」
「うん……」
体育座りをしたシンジは足を抱え込むようにして膝に顔を埋め、小さく呟いた。
「ま、逃げる事は別に悪い事じゃないんだが……」
シンジの横で胡座をかきながら、男は空を見上げて頭を掻いた。
「逃げるのが嫌なら――逃げない為には、それなりに力が要るな」
それを聞いてシンジは益々小さくなる。
「でも、僕は……弱虫だし、何の力も無いし……」
「……それを自覚して、認められるだけでも大したものだ」
そう言って男はシンジの頭にポンッと掌を置く。
「えっ？」
シンジは顔を上げて男を見た。
「……どうだ？ お前が望むのなら……私がお前に力をやるぞ？」
「え！？ ……ええっ！？」
男の突然の言葉にシンジは少し混乱する。
「……“力”って……？」
「逃げずに済むだけの力だ。……どうする？ 自分で考えて決めろ」
シンジは俯き暫く考えていたが、やがて小さな声で――しかしきっぱりと言った。
「僕はもう逃げ出したくない。だから力が欲しい」
男はシンジの答えに少し笑って言う。
「……言ったが、逃げてはいけない訳ではないぞ。
まあいい。それではこれから私の事は“師匠”と呼べ」
「……師匠？」
シンジは少し違和感を感じて首を傾げた。
「うむ。……ああ、まだお前の名前を聞いていなかったな」
「あ、はい。碇シンジです」
「碇？ ……ほう……ふむ…………成る程」
名前を聞いた男は虚空に向ってなにやら呟いていたが、その内一人納得したように頷いた。
「では、シンジ。取敢えずこれだ」
言いながら男はどこからとも無く取り出したベストをシンジに手渡した。何で出来ているのか分厚くずしりと重いそれに、シンジは少し蹌踉きながら戸惑う。
「えっ？ これ……？」
「うむ。まずはそれを身に付けランニングだ！」
「ええっ！？ そんな、魔法か何かで……！」
予想外の事態にシンジは声を上げるが、
「この、馬鹿弟子がぁ！！」
怒声と共に頬を張られ、地面に倒れ込む。
「そんな安易な手段で手に入れた力なんぞに価値などあるか！ 最後に頼りになるのは、自前の知力・体力・精神力！ それを簡単に得られると思うな！」
男は倒れたまま怯えを見せるシンジに、グイと顔を近付ける。
「解ったか？」
シンジは声を出せずコクコクと頷くだけだったが、男は満足したようにニヤリと笑って言った。
「……まあ、安心しろ。死なない限り私が何とかしてやるから。……ではランニング開始！」
安心など全く出来なかったシンジだが、号令に飛び上がって走り出そうとする。しかし、ある事を思い出し、足を止めて尋ねる。
「そ、そう言えば……し、師匠の名前を聞いていないんですけど……」
「私の名前か……私は名前を持つ意味が無いんだが……そうだな、“メフィスト”とでも名乗ろうか」
シンジはゲーテの作品を読んだ事がある訳ではなかったが、その名前に心当たりはあった。
クルリと振り返り駆け出しながら、シンジは呪文のように一つの言葉を心の中で唱え続けていた。
（逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ……）
北緯二十度五十分、東経百四十度三十一分。
西太平洋上にある無人島――メリダ島。
前世紀には『秘密の対テロ部隊の基地がある』だの『十七世紀の大海賊の宝が隠されている』などと囁かれていたその島は、しかし、セカンドインパクトと共に海上から消えていた。
――公式には。
「師匠ーー。夕飯が出来ましたーー」
地図から消えた筈のその島に存在する――かなり大きく瀟洒な――建物に、少年の声が響いた。
“魔法使い”と名乗る男に弟子入りして二年以上。少年――碇シンジ――は中性的で繊細な顔立ちと柔和な目付き、そして細身の身体は（年相応に成長していたが）変わらないものの、目の光や雰囲気、隙の無い身ごなしは以前と全く異なっていた。……エプロンを身に付け鍋を片手に持った様は、かなり微笑ましいものだったが。
「ほう、今日は東坡肉か。美味そうだな」
シンジの声に姿を現した“師匠”は、シンジの後ろに従う甲冑姿の巨体が手にする大皿を眼にして嬉しそうに言う。
「うむ、それでは、明日はさっぱりと豚シャブが食いたいな」
「豚肉はもうベーコンや腸詰しかありません。狩ってこないと……」
シンジは碗にスープを盛りながら、笑って答える。
「そうか……」
「明日、ジャングルに入って狩って来ますけど」
顎に手を当てて考え込むメフィストにシンジは言う。
「いや…………。シンジ、修行は今日で終わりだ」
「ええっ！？」
「何を驚く。基礎はみっちりやったし、応用も取っ掛かりは教えた。後は自習自得だ」
「でも……」
「何だ、戻ってやっていく自信が無いのか？ 今のお前は大抵の相手には対処出来るし、ファウストと組めば国すら攻め滅ぼす事が出来るんだぞ」
メフィストは脇に控えている甲冑を指し示して言い、言われたシンジは苦笑する。
「流石に、これ程の力は必要無いと思いますけど……」
「必要でなければ使わなければ良いだけの事だ。と言うより、持っているからといって必要が無ければ使うべきではない」
「はい、解っています」
しっかりと頷くシンジに頷き返したメフィストだが、少し首を傾げて続けた。
「とは言え、戻ったら少々“面白い事”が待っている。使わない訳にはいかなくなるかもしれないが……」
その言葉にシンジは訝し気な表情をして尋ねた。
「……何を企んでいるんです？」
「企んでいるのは私じゃない。他の誰かさ」
益々顔を顰めるシンジの頭を、ポンポンと叩いてメフィストが笑う。
「ま、知りたいなら自分で調べろ。その上で何をするか、自分で考え自分で決めろ。私はそれが出来るようお前を鍛えたし、お前はそれを身に付けた筈だ」
「……師匠…………」
シンジは頭に乗せられた掌の下で顔を歪ませながら、泣きそうな声で呟いた。
「人間どう生きようが後悔からは逃れられん。だが、納得出来る生き方は出来るだろう。
……しっかり生きて、きっちり死ね」
「……はいっ！」
感傷を振り払うようにして答えたシンジに、メフィストはもう一度笑い掛ける。
「そうそう、メリダ島はお前に残して置く。倉庫の物も含めて、好きに使え。何ならここに閉じ篭っていても構わんぞ」
「え？ 師匠はどうするんですか？」
「以前言ったが、私には時間も空間も大して意味がない。どこにいても同じ事だ。
……まあ、話は終わりだ。冷めないうちに飯を頂くとしよう」
言われたシンジは慌てて食事の準備を再開し、メフィストはゆっくり食卓に着いた。
メフィストに送り出されたシンジは、“先生”の家の離れの中に出現した。
部屋の中にいた“シンジ”は、突然現れたシンジとファウストを驚きもせず見詰めた。
「変わってないなあ、この部屋……」
無論違いが無い訳ではないのだが、数年留守にしていたにも関わらず雰囲気は同じものだった。部屋の中を一頻り見回したシンジは、目の前のもう一人の自分――メフィストが用意し、数年間“シンジ”を演じていた――に目をやった。
「……今迄御苦労様。じゃあ、これまでの記憶を移させてもらうよ」
そう言って“シンジ”の額に手を当てて数秒。シンジは蹌踉いて片膝を付いた。
「シンジ、どうかしましたか？」
「い、いや……大丈夫」
気遣うファウストに辛うじて応える。
シンジに流れ込んできた記憶に有ったのは、カツアゲやパシリに使われる“自分”。流石に酷い暴力は無かったようだが……。
（うぅっ……まあ、これじゃ仕方無いか……）
感情が感じられない瞳を向ける“シンジ”を見て溜息を吐く。
「……ホントに、これまで御苦労様」
それでも何とか立直って“シンジ”の肩を叩くと、その姿は一瞬で消え、人型に切り抜いた紙がハラリと床に舞い落ちる。
それを拾い上げ机の上に置こうとしたシンジは、そこに一通の手紙があるのを見付けた。手紙を取り上げ差出人を見ると『碇ゲンドウ』とあった。
「…………ああ、父さんか」
きっかり一分。漸くその名前に思い当たったシンジだったが、別に興味も湧かなかったので手紙を机に放り、ベッドに倒れ込んだ。
天井を眺めながら考え込む。
（帰ってきたのはいいけど、これからどうしようか……）
今更学校に行って普通の生活を送るつもりも無いし、然りとて何か目的がある訳でもない。師匠が言っていた“面白い事”は気になるが、それが何か分からない以上積極的に関わろうとも思わない。
暫く考え込んでいたシンジだが、閃いて上半身を起こした。
「よし、旅に出よう」
「旅……ですか？」
「うん。今の僕は特にやりたい事や、やらなきゃならない事がある訳じゃない。のんびりあちこち巡ってみるのも悪くないと思う」
「分かりました。御供します」
「うん、お願い」
そこまで言って、シンジは思い付いて机上の手紙を手に取る。
「……ついでだから父さんの顔でも見に行くか。今生の別れになるかもしれないし」
シンジはその手紙を眺めながら呟くと、封を切った。
どことも判らぬ空間にて。
「さて、これでシンジがどう動こうとも、馬鹿者共のシナリオに狂いが出る筈だが……」
「“人類滅亡”程度ならともかく、今回はそれでは済まないからな……。まあ、ファウストが付いているし、最悪の事態になってもシンジは生き残れるだろうが」
「私もいざとなったら河岸を替えればいいだけだが、折角ここまで進化した生物や文明が無に帰すのはな……」
「まあ、私には何の責任も無い事だが……。どうなる事やら……」
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